「有用な医薬品を回収すれば、社会不安が生じる」
1961年(昭和36年)12月6日、大日本製薬(現・住友ファーマ)と厚生省は、会議室でそう結論した。
西ドイツのハンブルク大学小児科医、ヴィドゥキント・レンツが「薬を回収せよ」とグリュネンタール社に電話を入れてから、21日後のことだった。
販売は、続けられた。
そのあいだに、162人の子が生まれた。
これは GuidelineChecker の編集部が書く、コラムの 23本目、薬機法シリーズの 3本目である。21本目 万病に効く、1914年 で誇大広告規制の起源を、22本目 ヒロポン、1951年 で「広告では律せない薬がある」と国が認めた瞬間を辿った。今回はその11年後、効くと思われて承認された薬が、市販後に壊滅的な副作用を露わにし、日本の医薬品行政を作り変えた物語である。
安全な睡眠薬
西ドイツでは、その薬は「コンテルガン」という名で売られていた。
1957年10月1日発売、薬局で処方箋なしに買える鎮静催眠薬。グリュネンタール社は「妊婦にも安全な夢の薬」と宣伝した。日本にこの薬が入ってきたのは、その四ヶ月後である。
1958年(昭和33年)1月20日、大日本製薬が「イソミン」として発売した。
ライセンス契約ではない。同社が独自に合成法を開発し、独自に申請して厚生省の承認を得た薬だった。副作用のない安全な睡眠薬として、新聞広告は妊婦や小児にも安心して飲めると謳った。
1960年(昭和35年)8月、サリドマイドを胃腸薬と組み合わせた「プロバンM」が発売される。
神経性胃炎用——だが、つわりに悩む妊婦に広く処方されることになる。薬局には、処方箋なしで並んでいた。
ハンブルクの電話
異変に気づいたのは、ハンブルク大学の小児科医だった。
レンツは1961年の秋、ドイツで急増する四肢の形成不全をもつ新生児を調べていた。短肢症——肩から先が短いか、手だけが出ているような赤ん坊たち。何かの薬が原因だ、と気づいたとき、ある成分が浮かび上がった。サリドマイド。
11月15日、彼はグリュネンタール社へ電話をかけた。回収してほしい、と。3日後の11月18日、デュッセルドルフで開かれた小児科学会の地方会で、商品名を伏せたまま、これは薬害だと発表した。
グリュネンタール社の幹部は当初これを拒否し、訴訟をちらつかせた。だが州当局と新聞が動き、11月26日、ついに販売中止を通告。翌27日、西独の薬局から「コンテルガン」が消えた。
英国も12月に回収を決めた。世界が動きはじめていた。
十ヶ月
レンツの警告が日本に届いたのは、1961年12月4日。代理店の日瑞貿易が、大日本製薬に伝えた。
翌12月5日、大日本製薬はグリュネンタール社に国際電話を入れる。製造元はこう答えた——「発表は科学的には信じられないが、全国の新聞にニュースが流れてしまった。もはや検討のひまはない。とりあえず、薬をひきあげた」。
回収は科学的確信に基づく決断ではなく、報道対策だった——日本側はそう受け取った。
12月6日、大日本製薬と厚生省は協議の机についた。
レンツが示した証拠は、症例の聞き取り調査。動物実験での裏づけはまだなく、サリドマイドが胎盤を通って胎児に届くということ自体が、当時の医学常識ではなかった。
一方、「妊婦にも安全」と4年間広告してきたイソミンとプロバンMは、同社のサリドマイド製剤売上の9割を超える主力品である。回収すれば、全国の薬局と家庭に渡った薬の信用は崩れる。4年間の広告を、自社で否定することになる。
そして当時の薬事法には、厚生大臣が医薬品の回収を命じる権限がなかった。
できるのは、行政指導だけだった。
会議の結論は、これだった——「有用な医薬品を回収すれば、社会不安が生じる」。
販売は、続けられた。
ただし、同じ12月6日のうちに、大日本製薬は社内で別の動きを始めていた。
胃腸薬プロバンMから、サリドマイドだけを別の成分に置き換える設計である。5日後の12月11日、その変更申請が厚生省へ提出された。「警告は重大」と見ていた者は、社内にいた。
彼らが選んだのは、公に回収することではなかった。製品ラインを、静かに差し替えることだった。
1962年(昭和37年)1月、大日本製薬は西独に学術課長を派遣する。だがこの課長は、グリュネンタール社の関係者にだけ会い、レンツ博士には会わずに帰国した。
2月6日、厚生省にこう報告した——「レンツ博士の警告には科学的根拠がない」。
その2月、そして5月にも、厚生省は他社のサリドマイド製剤の新規認可を出している。
5月17日、ようやく朝日新聞夕刊が「自主的に出荷中止/イソミンとプロバンM」のスクープを書いた。だが翌朝の朝刊は「日本では有害例なし」とトーンを落とした。
7月7日、12月のあの日から設計されていた「プロバンMB」が、ようやく市場に出る。プロバンMの代替薬で、成分はブロモバレリル尿素に置き換えられている。
商品ラインは、こうして維持された。
国内の被害児が新聞紙面に載るのは8月28日、読売新聞のスクープ。9月13日、ようやく大日本製薬は販売中止と回収を決定する。
レンツの電話から、十ヶ月だった。
一六二人
日本で認定されたサリドマイド被害者は309人。死産・流産まで含めれば、推定で1,000人から1,400人にのぼる。
そのうち1962年に生まれた被害児が、162人いる。
全体の52%——半数以上が、レンツの警告のあとに生まれた子たちだった。
被害の中心は、四肢の形成不全だった。短肢症と呼ばれる、肩から先が短いか、手だけがある状態。耳の欠損、難聴、内臓や心臓の奇形、失明。複数の臓器に同時に出ることが多かった。
サリドマイドは胎児の中枢神経には影響を残さない。だから、知能は普通に育つ。
妊娠34日から50日のあいだに、たった1錠を母親が飲んだだけで、赤ん坊は障害を負った。
後にいしずえ財団の理事長となる被害当事者・佐藤嗣道は、こう書いている。「警告時に対策をとり、回収を徹底していれば、1962年9月生まれ以降は被害にあわなかったはず」。人災だ、と。
太平洋のもう一方の岸
同じ夏、太平洋の向こう側では、別のことが起きていた。
1960年9月、米国の製薬会社がサリドマイドの承認を申請する。商品名は「ケバドン」。米国市場への投入を間近に控えていた。
審査を割り振られたのは、入庁したばかりのFDA審査官、フランシス・オールダム・ケルシー。彼女は、申請書類に添えられた安全性の根拠が薄いと判断した。
60日ごとに追加データを要求した。1年以上、申請は塩漬けにされ続けた。
1961年11月、レンツの警告が出る。
彼女の判断は、正しかった。米国の薬局の棚にサリドマイドは並ばず、本土で生まれた被害児は、メーカーが「実験用」として配った試料による17人にとどまった——世界の被害が約1万人を数えるなかで。
1962年8月7日、ホワイトハウス東室。
ケネディ大統領は、ケルシーの胸に勲章をかけた。連邦政府の公務員に対する最高位の文民表彰で、女性として2人目の受賞だった。
同じ年の10月、米国はケファウバー・ハリス修正を可決する。新薬は安全性に加え、有効性も証明しなければ承認できない——制度が、変わった。
その夏、日本のサリドマイドは、まだ薬局の棚に並んでいた。
1979年、薬害が法律になった日
1963年(昭和38年)6月、名古屋地裁。被害者の家族が大日本製薬を相手に損害賠償を求める訴訟を起こした。日本のサリドマイド訴訟の起点である。
訴訟の被告は、製薬会社と、国(厚生省)だった。1時間半の簡易審査で承認したこと。レンツ警告後も他社製品を認可したこと。販売中止が10ヶ月遅れたこと——国の責任が問われた。
被告は、当初は争った。
だが、1971年11月、レンツ博士が来日して東京地裁の法廷に立つ。原告側証人としての証言は、決定打となった。
1974年(昭和49年)10月13日、全国8地裁・62家族が、国と大日本製薬と「確認書」を交わす。厚生大臣はそこで確約した——「新医薬品承認の厳格化、副作用情報システム、医薬品の宣伝広告の監視」を行う、と。
そして、5年後である。
1979年(昭和54年)10月1日、薬事法は大きく改正された。昭和54年法律第56号。
改正は6つの柱を立てた。
- 承認審査の法定化
- 再審査制度
- 再評価制度
- 副作用報告制度の義務化
- GMP(製造管理・品質管理基準)
- 緊急命令と回収命令
薬を「売る前に審査し、売った後も監視する」仕組みが、ここで一気に法律に書き込まれた。
同じ日、もうひとつの法律も生まれた。昭和54年法律第55号、医薬品副作用被害救済基金法。
薬の副作用で被害を受けた人を、国の制度として救済する。
サリドマイドの被害者は、この基金では救われない。制度開始は1980年5月1日、被害発生から20年遅れた。それでも国がこの仕組みを作ったのは、もう二度と、被害者が長い裁判で戦わなければ救われない国にはしない、という宣言だった。
戻ってきた薬
1999年、厚生省(当時)の正門前に、ひとつの碑が建てられた。「誓いの碑」。
そこにはこう刻まれている——「命の尊さを心に刻みサリドマイド、スモン、HIV感染のような医薬品による悲惨な被害を再び発生させることのないよう……」。三つの薬害事件の名前のうち、筆頭にサリドマイドが置かれている。
そしてサリドマイドは、戻ってきた。
1998年、米FDAがハンセン病の合併症(結節性紅斑)の治療薬として承認した。2006年には多発性骨髄腫にも。日本でも2008年10月16日、藤本製薬の「サレドカプセル100」として、多発性骨髄腫の治療薬として再承認された。
ただし、TERMS(Thalidomide Education and Risk Management System)という厳格な管理プログラムの下でだけである。
処方する医師も、調剤する薬剤師も、服用する患者も、すべて登録される。妊娠の可能性のある女性には避妊が義務づけられ、毎回確認される。
それは「無罪放免で戻ってきた」のではない。「効くと分かった薬を、もう二度と被害を出さずに使う」という、ひとつの到達点だった。
1914年の売薬法は、「効くなら、証明せよ」を言った。「効能の嘘」を縛る出発点だった。
1951年の覚せい剤取締法は、効きすぎる薬を「広告ではなく、物そのもの」で禁じた。
そしてサリドマイドは、1979年の薬事法改正に「売る前に、本当に効くか・本当に安全かを審査せよ」を書かせた。
その8年後、もう一つの薬害 スモン が「売った後も監視し、被害が出たら救済せよ」を書き足して、改正の両輪を完成させた。
——サリドマイドが残したのは、ひとつの薬害だけではなかった。薬害が、法律の文字になった。
その薬事法は、2014年に薬機法と名を変えて、いまも生きている。
FAQ
サリドマイドとは何ですか?
西ドイツ・グリュネンタール社が1957年に「コンテルガン」として発売した鎮静催眠薬で、有効成分の物質名がサリドマイドです。日本では大日本製薬(現・住友ファーマ)が独自合成・申請し、1958年に「イソミン」、1960年には胃腸薬「プロバンM」として発売しました。妊娠初期の女性が服用すると、胎児に四肢の形成不全などの重い障害を引き起こすことが1961年に判明し、世界各国で販売中止になりました。
日本ではなぜ販売中止が10ヶ月遅れたのですか?
1961年11月のレンツ警告は12月初旬には日本にも届いていましたが、大日本製薬と厚生省は「有用な医薬品を回収すれば社会不安が生じる」として販売継続を決定しました。1962年1月に西独へ派遣した社員はレンツ博士に会わずに帰国し、「警告に科学的根拠なし」と報告。販売中止は1962年9月13日まで延びました。この10ヶ月で被害が拡大し、日本の認定被害者309人のうち1962年生まれが162人(52%)を占めることになりました。
サリドマイドと薬機法はどう関係しますか?
サリドマイド事件をきっかけに、1979年(昭和54年)10月1日、薬事法が大きく改正されました(法律第56号)。承認審査の法定化、再審査・再評価制度、副作用報告制度、GMP、緊急命令・回収命令などが一気に法定化され、現代薬機法の「有効性・安全性の確保」の枠組みが確立しました。同日には医薬品副作用被害救済基金法(法律第55号)も公布され、副作用被害を国の制度として救済する仕組みが生まれました。この薬事法は2014年に「薬機法」へと名称が変わって現在に至ります。
サリドマイドの被害者は救済されたのですか?
1963年に名古屋地裁で提訴された訴訟は、1974年10月13日に国と大日本製薬と被害者家族のあいだで「確認書」が交わされ、被害者一人あたり約2,800〜4,000万円の賠償金と物価スライド型の年金などで決着しました。同年12月、被害者の医療・福祉を恒久的に担う公益財団法人いしずえが設立されました。なお1979年に創設された医薬品副作用被害救済制度は1980年5月開始のため、それ以前の被害であるサリドマイドはこの制度の対象外です。
サリドマイドはいま販売されていますか?
はい。1965年頃にハンセン病の合併症(結節性紅斑)に有効であることが偶然発見され、その後、多発性骨髄腫の治療薬としても有効性が確認されました。日本では2008年10月16日に藤本製薬の「サレドカプセル100」が多発性骨髄腫の治療薬として再承認されています。ただしTERMSという厳格な管理プログラムの下で、医師・薬剤師・患者がすべて登録され、妊娠の可能性のある人には避妊が義務づけられる条件付きの流通です。