薬機法
1914年の売薬法から始まる、薬害事件と医薬品・健康食品規制の歴史。
サリドマイド、薬害エイズ、薬害肝炎、イレッサ、トクホまで ──
制度の死角と、それを埋めてきた法改正の100年を辿ります。
万病に効く、1914年 — 薬機法の誇大広告規制が始まった日
明治の新聞広告は「万病に効く」と叫んでいた。コレラが一夏に10万人を殺し、医師は全国に5,300人ほど。医者にかかれない庶民にとって、万能薬は希望だった。ただ、その薬が本当に効くのかは、誰も確かめなかった。 国の本音すら「無効無害主義」——効かなくてよい、害さえなければ。その方針が「効くなら、証明せよ」へ覆ったとき、日本で初めて医薬品の誇大広告を禁じる法律が生まれた。1914年の売薬法である。
ヒロポン、1951年 — 薬局で覚醒剤が買えた時代
戦後の日本で、街の薬局に覚醒剤が並んでいた。大日本製薬の「ヒロポン」。学生から作家まで、誰もが当たり前に手を出した時代があった。 乱用は瞬く間に社会問題になった。国はまず広告を、表示を、製造量を縛った。だが、止まらなかった。1951年、覚せい剤取締法は「持っているだけで違法」と決める——広告で律せない薬がある、と日本が初めて認めた瞬間だった。
サリドマイド、1962年 — 効くと思われた薬が変えた制度
「妊婦にも安全な夢の薬」と謳われて、薬局で処方箋なしに売られた睡眠薬があった。胃腸薬と組み合わせたものは、つわりに悩む妊婦に広く処方された。だが1961年、世界はそれが胎児に重い障害をもたらすと知る。 各国は数週間で回収した。日本だけが、十ヶ月遅れた——その遅れのあいだに生まれた被害児は、162人。十二年の裁判を経て、1979年、「薬害」がはじめて法律の文字になった。
スモン、1970年 — 整腸剤が日本に書かせた市販後監視
1970年5月、東京御茶ノ水の三楽病院で、看護師が患者の導尿管に蛍光緑色の液体を見つけた。誰も見たことのない色だった。 9年後、国と製薬3社は、11,127人の患者に責任を認める書類に署名した。下痢を止めるはずだった薬が、日本の薬事法を作り変えた話である。
四十六年通知、1971年 — 食品が薬になる線が引かれた日
1959年から1965年まで、ガラスの小瓶ひとつで38人が死んだ。アンプル入り風邪薬の連続ショック死事件である。 6年後、厚生省はわずか数枚の通知を出した。法律ではない。ただの通知である。だがそれは、半世紀以上たった今もサプリ・健康食品・化粧品広告で「これは薬か、食品か」を仕分け続けている。
1980年10月9日 — 広告の言葉が書き換えられた日
1980年10月9日、厚生省薬務局長は同じ日に2通の通知を出した。1通は1979年薬事法大改正の施行通知。もう1通が医薬品等適正広告基準。サリドマイドとスモンで国の安全責任が法に書き込まれた、その10日後のことだった。 「最高」「絶対安全」「医師も推奨」「私はこれで治った」——その日を境に、これらは禁じ手になった。45年経って、Instagramのインフルエンサー投稿も、TikTokのレビュー動画も、すべてこの一片の通知が引いたラインの中で動いている。
JAROってなんじゃろ、1974年 — 日本広告審査機構が生まれた夏
1974年8月28日、東京会館の大広間に約300人が集まった。加入会員110社、協力機関150団体。米国の Better Business Bureau (1912年設立) を範に、日本ではじめての広告自主規制機関が生まれた日である。 景表法でも薬機法でもなく、業界が業界を律する。行政の措置命令が動く6年も前に、JAROは医薬品CMの「よーく効く」を誇大広告と認定した。
薬害エイズ、1985年 — 2年4ヶ月遅れた加熱処理
1983年3月21日、米国 FDA は血液製剤を加熱処理に切り替えた。HIVは熱で死ぬからだ。 日本が同じ判断を下したのは、2年4ヶ月後の1985年7月1日だった。その間、米国から輸入された非加熱製剤を打たれた血友病患者およそ1,800人が、HIVに感染した。約700人が死亡し、11年後、菅直人厚生大臣が「郡司ファイル」を見せて国家謝罪する。
特定保健用食品、1991年 — 46通知に空いた最初の穴
1971年の四十六年通知は、「食品で効能を書いたら薬とみなす」と告げた。 20年後の1991年7月、その壁に最初の穴が空く。世界初の機能性食品制度、特定保健用食品。背景には、東京大学農学部の藤巻正生が1984年に提唱した「食品の三次機能」という日本発の学術概念があった。
三つの薬害、1993-2008年 — 1979年改正の死角
1979年薬事法改正は「売る前に審査、売った後も監視」を制度化した。 薬害エイズが最初の試金石となったあと、薬害は止まらなかった。1993年ソリブジン、薬害肝炎、2002年イレッサ。3つは別々の方向から制度の死角を突き、いずれも刑事責任は問えなかった。「罪を問わずに制度で応答する」現代型薬害対応はここから始まる。
薬機法、2014年 — iPS細胞が動かした法律
1960年から続いた薬事法は、2014年11月25日に薬機法と名前を変えた。 動かしたのは、手術下手で「ジャマナカ」と呼ばれた研修医が、米国留学とPADを経て発見した iPS細胞だった。
ハーボニー、2015年 — 薬害肝炎が「治った」日
1988年、山中伸弥の父は名前のないウイルスに倒れた。 2015年9月、その病気は12週間の経口薬で治る病気になった。山中がiPSで世界を変えようとしていたまさにその時、別のルートからC型肝炎は制圧された。
オプジーボ、2014-2018年 — 高額医薬品時代と薬価制度改革
2014年7月、年間3,500万円のがん免疫療法薬が世界で初めて日本で承認された。 翌年12月の肺がん適応拡大で対象が100倍に。日本の薬価制度は史上初の特例50%引下げと、戦後最大の抜本改革を迫られた。京大2人目のノーベル賞は、その渦中で授与された。
日本の薬価はどう決まるのか — 算定方式・外国平均価格・500万円/QALY の仕組み
オプジーボの3,500万円、ハーボニーの670万円、命の値段の500万円。 3つの数字すべてを、企業ではなく国が決めている。米国とは全く違う日本の薬価算定の仕組みを、算定方式・外国平均価格・費用対効果評価・透明性の限界まで解剖する。
薬機法に課徴金が加わった日 ── ディオバン無罪、その34日後
2021年6月28日、最高裁はディオバン事件の元社員を無罪とした。「学術論文は薬事法の広告ではない」── 三審が一貫して新規立法の必要性を示唆した。 その34日後の8月1日、薬機法に課徴金が施行された。売上の4.5%、景表法より高い「牙」。景表法・特商法と並ぶ三本目の牙が立った瞬間の物語。
緊急承認、2022年 ── アビガンが届かなかった先にできた制度
2020年5月4日、緊急事態宣言延長会見で安倍首相は「アビガン、今月中の承認を目指したい」と述べた。 5月承認は実現しなかった。10月の申請、12月の継続審議、2022年3月の開発中止。届かなかった薬の軌跡が、2022年5月、緊急承認制度を作った。届いた第1号は、塩野義ゾコーバだった。
ネット販売の16年、2025年 ── 後藤玄利の訴訟から、薬機法が動き続けた
2009年、厚労省は省令で医薬品ネット販売を全面禁止した。ケンコーコム創業者 後藤玄利は提訴し、2013年最高裁で勝訴。 だが翌2014年、立法府は「要指導医薬品」を新設して対面販売義務を法律に書き込んだ。司法→立法→司法→立法、4ラリーの末、2025年5月、薬機法は自ら書いた壁を取り払う。
流通・供給・遠隔の3つの試練 ── 2025年薬機法改正・後編
2017年1月17日、奈良のサン薬局で偽造ハーボニーが発見された。「対面販売なら安全」のはずが、対面の薬局で起きた。 それから8年、薬機法は3つの試練 (偽造、ジェネリック供給崩壊、メディカルダイエット) を受け、2025年改正で「責任者法定化、届出義務、トレーサビリティ」による新しい監督体制に移行する。
超高額薬ランキング ── 1.6億円の遺伝子治療から、肥満薬まで
2020年5月13日、中医協は1億6,707万円のゾルゲンスマを保険適用した。SMAの乳幼児に1回投与する遺伝子治療、当時「人類史上最も高い薬」。 ハーボニー (670万円) → オプジーボ (年3,500万円) → キムリア (3,349万円/回) → ゾルゲンスマ (1.67億円/回) → ウゴービ (対象600万人) ── 超高額薬の薬価上限は10年で50倍に上がり、制度はどう支えたのか。
売薬法からゾルゲンスマまで ── 薬機法110年の地図 (1914-2026)
1914年の売薬法は「効能を書くなら登録せよ」と命じた。2025年、ゾルゲンスマは1.67億円で承認された。 薬機法110年は、効くか・危なくないか・誰が監視するか・払えるか、という4つの問いの周りで進化してきた。本シリーズが辿った21本の節目を一枚の地図に並べ、3つの重心 (証明・監視・制裁) を読む。どの記事からでも、ここを起点に辿れる。