薬機法 読了 10 分

スモン、1970年 — 整腸剤が日本に書かせた市販後監視

1970年5月、東京御茶ノ水の三楽病院で、看護師が患者の導尿管に蛍光緑色の液体を見つけた。誰も見たことのない色だった。

9年後、国と製薬3社は、11,127人の患者に責任を認める書類に署名した。下痢を止めるはずだった薬が、日本の薬事法を作り変えた話である。

目次 (10 章)
  1. 緑色の正体
  2. 椿の数字
  3. 9月7日の決断
  4. ウイルス説の罪
  5. 戸田の奇病
  6. 8年の裁判
  7. 1979年10月1日
  8. それでも、スモン患者は対象外だった
  9. FAQ
  10. 参考文献

1970年5月、東京御茶ノ水。

三楽病院の看護師が、入院していた女性患者の導尿管をのぞき込んだ。袋に溜まっていたのは、見たことのない蛍光緑色の液体だった。

血でも膿でもない。何かの薬物に違いなかった。

看護師はその尿を保管した。やがて検体は東京大学薬学部に運ばれ、田村善蔵教授のチームが分析を引き受けた。

これは GuidelineChecker の編集部が書く、コラムの 24本目、薬機法シリーズの 4本目である。21本目 万病に効く、1914年 で広告規制の起源、22本目 ヒロポン、1951年 で「物そのものを禁じる」分岐、23本目 サリドマイド、1962年 で市販前審査の起源を辿った。今回は、市販後監視と被害救済が日本の薬事法に書き込まれた瞬間の話である。


緑色の正体

1970年6月、田村は答えを出した。

緑色物質の本体は、キノホルムと三価鉄のキレート化合物だった。キノホルムは戦前から日本薬局方に載っている整腸剤である。患者は、それを長く服用していた。

その頃、全国の病院にある奇妙な病気が広がっていた。

下痢が続いたあと、ある日突然、下肢が痺れる。歩けなくなる。視神経が萎縮して見えなくなる。舌が緑色になる。

医師たちはこの病気を subacute myelo-optico-neuropathy ── 略してスモンと呼んでいた。亜急性脊髄視神経症。1964年に東大の椿忠雄・豊倉康夫・塚越廣らが命名した、原因不明の難病だった。

緑色の尿が、その正体に手をかけた。患者の体内でキノホルムが鉄と結合し、神経を侵し、緑色の塊になって排泄されていた。


椿の数字

新潟大学医学部教授、椿忠雄。1965年1月に着任し、すでに5年、スモンを追っていた。

田村の発表を受けて、椿は6つの病院・171名の患者のカルテを照合した。神経症状が出る前に、それぞれが何を飲んでいたかを記録した。

結果は揃いすぎていた。

166名がキノホルムを服用していた。残る5名にも疑いがあった。発症前 10日から 40日の間に服用が集中していた。飲んだ量が多いほど、症状が早く、重く出ていた。

椿は迷わなかった。

1970年8月6日、新潟県衛生部経由で厚生省に警告書を提出した。「キノホルムはスモンの発症あるいは症状の悪化に関係する」── これが、後に「椿報告」と呼ばれるようになる。

1ヶ月後、9月5日。第34回日本神経学会関東地方会で、椿は「キノホルム原因説」を公式発表する。


9月7日の決断

その2日後、東京・霞が関の厚生省に中央薬事審議会が緊急招集された。

会長は 石館守三、68歳。東大薬学部出身、後に日本薬剤師会会長を 12年務めることになる男である。

審議会の議題はひとつ。キノホルムをどうするか。

因果関係は完全には証明されていなかった。動物実験のデータも揃っていなかった。確実なのは、椿の疫学調査だけだった。

それでも審議会は答えを出した。

この病気の一因である可能性は否定できない」── キノホルムの販売停止と使用見合わせを答申した。

翌1970年9月8日、厚生省薬務局長通知が全国に流れた。キノホルム剤、販売停止

椿の警告書から、わずか33日。

そして、奇妙なことが起こった。新規のスモン患者が、その月から激減した。やがてほぼゼロになった。

販売停止が、そのまま最大の証拠になった。


ウイルス説の罪

ここで時計を少しだけ戻す。

1970年2月、京都大学医学部助教授の井上幸重は、患者の糞便から「スモンウイルス」を検出したと発表した。朝日新聞は一面で取り上げた。

「スモン病 ウイルス感染説強まる」。

新聞を読んだ家族は怯えた。スモンは「うつる病気」と受け取られた。患者は近所から距離を置かれた。子どもは学校で避けられた。配偶者は職場を追われた。

自殺者が、続いた

田村が緑色の正体を突き止めたのが、その4ヶ月後である。椿が警告書を出したのが、6ヶ月後である。9月8日の販売停止までに、ウイルス説は半年間、社会を歩き回っていた。

井上のウイルスは、後に追試で再現されなかった。1978年の東京地裁判決もウイルス説を退ける。だが、半年のあいだに失われたものは戻らない。

未確定の仮説を全国紙の一面に載せた代償は、患者が払った。


戸田の奇病

スモン患者は、特定の地域に固まって発生していた。

1957年に山形。1958年に大牟田と津。1963年に釧路・室蘭・札幌・米沢・徳島。1964年には埼玉県戸田と蕨で集団発生し、東京オリンピックのボート競技会場の地名から「戸田の奇病」として報道された。

地理が偏るから、医師たちは長く感染症を疑った。井上のウイルス説に追い風が吹いたのも、この地理パターンのせいだった。

だが偏りの正体は、感染ではなかった。キノホルムの処方傾向だった。

1900年頃にスイスの Ciba社が合成したクリオキノール。当初の用途はアメーバ赤痢の治療薬と皮膚消毒剤である。日本では 1939年に日本薬局方に収載され、戦後は整腸剤として広く処方された。

ピーク時、市場にはキノホルム製剤が 182品目並んでいた。チバ社のエンテロビオフォルム、田辺製薬のエマフォルム、各社のメキサホルム ── どれも「下痢に効く」「腸の調子を整える」と売られていた。

世界で診断されたスモン患者は約 10万人。そのほとんどが日本人だった。スウェーデンの眼科医ベルグルンドや小児科医ハンソンは早くからキノホルムの神経毒性を警告していたが、日本ではその声が処方の現場に届かなかった。

長く飲める、安価で、副作用の心配がないとされた整腸剤。そう信じて飲み続けた患者だけが、地理を超えて症状を発した。


8年の裁判

1971年5月28日、東京地方裁判所。

全国スモンの会会長・相良丰光を代表とする原告団が、訴状を提出した。被告は、国と 武田薬品工業・日本チバガイギー・田辺製薬の 3社。慰謝料は患者1人あたり 5,000万円。

ここから、戦後最大の薬害集団訴訟が始まる。

提訴は東京に留まらなかった。1972年12月以降、大阪・前橋・奈良・神戸・京都・高知・広島・金沢・福岡・静岡・仙台 ── 全国の地裁に拡大した。1981年1月までに、32の地裁・原告およそ 6,000人が並んだ。

判決は次々と原告勝訴で揃っていった。

日付裁判所判決
1978年3月1日金沢地裁日本の裁判史上初の薬害訴訟勝訴判決
1978年8月3日東京地裁原告119人に32億円、国・3社に支払命令
1978年11月福岡地裁国の責任を明確認定
1979年8月21日前橋地裁9つ目の原告勝訴

9連勝。国と企業の責任が、司法によって完全に確定した。

そして 1979年9月15日、原告弁護団と国・全被告会社のあいだで「確認書」が調印される。

国は深く陳謝した。一時金が支払われた。健康管理手当・介護費・年金が約束された。日本ではじめての、「生きているあいだは国と企業が責任を持つ」恒久対策スキームだった。


1979年10月1日

確認書から 16日後、1979年10月1日。

国会で 2つの法律が公布された。薬事法の一部を改正する法律と、医薬品副作用被害救済基金法

改正薬事法は、6つの柱を立てた。

サリドマイドが「市販前の安全性審査」を、スモンが「市販後の監視と被害救済」を、日本の薬事法に書き込んだ。

二つの薬害が、20年かけて、ひとつの法律になった。


それでも、スモン患者は対象外だった

薬事法改正と並んで成立した医薬品副作用被害救済基金は、1980年5月1日に業務を開始した。

製薬企業の拠出金で、副作用被害者の医療費や年金を支える日本初の制度だった。

ただし条文には、ひとつの線が引かれていた。給付の対象は「1980年5月1日以降に使用された医薬品」

スモン患者は、対象外だった。

自分たちの 11,127人が押し開けた制度に、自分たちは入れない。スモン患者の救済は、1979年9月15日の確認書による恒久対策で別途行われた。今もそれは続いている。

法律というものが、いかに前向きの仕組みでしかないかを、この一線は伝える。

1970年5月の三楽病院で、看護師が見つけた緑色の尿。

その色は、1979年10月1日の官報の文字に変わり、1980年5月1日に始まった救済制度を産み、それから 46年が経った。

そして、1979年改正薬事法のもうひとつの落とし子として、1980年10月9日 ── 薬発第1339号「医薬品等適正広告基準」が、ちょうど 1年後の同じ秋に薬務局長通知として全国に流れた。

それはまた別の話である。


FAQ

スモンとは何ですか?

亜急性脊髄視神経症 (subacute myelo-optico-neuropathy) の略です。下痢などの腹部症状の後、下肢の痺れ・歩行困難・視神経萎縮を起こし、舌や尿が緑色になります。1955年頃から日本各地で発生し、1972年までに 11,127人の患者が確定しました。整腸剤キノホルムの長期連用が原因です。

なぜ日本だけで大量に発生したのですか?

キノホルムが日本では戦後、整腸剤として広く長期処方された一方、海外では用途も期間も限定的だったためです。スウェーデンの医師が早期に神経毒性を警告していましたが、日本の処方現場には届きませんでした。世界のスモン患者約 10万人のほとんどが日本人でした。

椿報告から販売中止までなぜ 1ヶ月で動けたのですか?

椿忠雄の疫学調査が、6病院 171名のうち 166名がキノホルム服用という揃いすぎた数字を出していたためです。中央薬事審議会会長の石館守三は、因果関係が完全には証明されていない段階で販売停止を答申しました。サリドマイドのとき米FDA中止から日本中止まで 10ヶ月かかったのとは対照的です。

1979年薬事法改正の核心は何ですか?

法目的に「品質・有効性・安全性の確保」を明記したうえで、再審査制度・再評価制度・副作用報告義務化・緊急命令制度を新設しました。サリドマイドが市販前審査を、スモンが市販後監視と被害救済を、それぞれ法律に書き込んだ改正です。

スモン患者は医薬品副作用被害救済制度の対象ですか?

対象外です。救済基金の給付は 1980年5月1日以降に使用された医薬品が対象で、それ以前のスモン患者は別途、1979年9月15日の「確認書」に基づく恒久対策 (健康管理手当・介護費・年金) で救済されています。