1979年薬事法改正 は、「売る前に審査、売った後も監視」を制度化した。サリドマイド・スモンという2つの大薬害を経て、ようやく整った制度だった。
その制度を最初に試したのが、薬害エイズ だった。
これは GuidelineChecker のコラム 31本目、薬機法シリーズの 9本目である。前回の トクホ、1991年 で、薬機法の枠の外に食品表示の例外制度が生まれたことを辿った。今回は同じ時代、薬機法の枠の中で起きたことの話 ── 1979年改正で作った市販後監視制度がその後、3つの薬害に試されたが、いずれも薬害エイズのような 刑事責任を問う形では決着しなかった 20年の話である。
ただ、薬害が起きるたびに、制度は新しい安全対策を一つずつ書き加えていった。
試金石のあと、薬害は続いた
薬害エイズが社会を震撼させた1996年、官僚個人 (松村明仁 元生物製剤課長) が 不作為で刑事責任を問われた。戦後薬害史の中でも、これ以上ない重さの決着だった。
「もう薬害は起きない」── そう感じても、おかしくはなかった。
だが、薬害は止まらなかった。1993年ソリブジン。1996-2008年薬害肝炎。2002年イレッサ。それぞれ、薬害エイズとは異なる角度で薬害が起き続けた。
特に、3つに共通する特徴があった。いずれも刑事責任は問えなかった。
ソリブジンは行政対応で決着し、薬害肝炎は救済法に転換、イレッサは最高裁が国・企業ともに 無罪と判決した。
不思議だった。1979年改正で作った監視制度はあった。サリドマイド・スモン・薬害エイズの教訓は、制度の至る所に刻まれていた。なのに薬害は止まらなかった。
理由は、3つそれぞれ別だった。制度の死角を、別々の方向から突いたからである。
ソリブジン、1993年
1993年9月3日、帯状疱疹治療薬「ユースビル錠」が発売された。
製造は 日本商事、販売提携は エーザイ。主成分はソリブジン ── 1979年にヤマサ醤油が合成した抗ウイルス薬で、帯状疱疹に効くと期待されていた。
発売16日後の 1993年9月19日、最初の死亡例が発生する。
エーザイから日本商事への連絡が翌20日。日本商事から厚生省への報告は、9月27日 ── そこからさらに8日が経過していた。
10月8日、中央薬事審議会の副作用報告調査会。10月12日、厚生省と日本商事の公式発表、出荷停止、緊急安全性情報配布。発売からわずか5週間だった。
しかし、それまでに死者は出続けていた。最終的な集計では、副作用症例23例、うち 死亡14例。
何が起きていたか。
ソリブジンは単剤としては比較的安全な薬だった。市販前の臨床試験も問題なく通過していた。
問題は、抗がん剤フルオロウラシル系 (5-FU) との併用だった。
ソリブジンは腸内細菌の作用で ブロモビニルウラシルに代謝される。このブロモビニルウラシルが、5-FUを分解する酵素 DPDを不可逆に阻害してしまう。結果、併用患者の体内では5-FUの血中濃度が異常に上昇し、白血球減少・血小板減少・消化管障害を経て、致命的な経過を辿った。
ここに、1979年改正の 一つ目の死角があった。
市販前の臨床試験は、薬を 単剤として評価する。他剤との相互作用、特に「市販後すぐに併用されるであろう特定の薬」との致命的相互作用は、市販前の枠組みでは検出しきれない。
添付文書には、5-FU系との併用注意の記載があった。だが、致命性の警告として 不十分だった。医師・薬剤師がリスクの大きさを認識しないまま、現場で併用処方が行われた。
そして、もう一つ、嫌な後日談があった。
1994年3月5日、日本商事株の インサイダー取引が発覚する。発売後の副作用情報を、社内関係者・販売提携先・取引のあった医師らが公表前に把握し、株を売却して損失を回避していた。
後に最高裁まで進む金融商品取引法の重要判例となった。患者の死亡情報を株式売買に転用したという情報の性質が、インサイダー史でも特異な事例として語り継がれる。
社長の服部孝一は社会的責任を取って辞任した。
薬害+株式スキャンダルの複合事件として、ソリブジンは記憶された。
市販直後調査、1996-97年
ソリブジン事件は、制度設計者にひとつの教訓を残した。
「市販直後の数週間にこそ、最も集中的にデータを集める必要がある」。
新薬は、市販後の最初の数ヶ月で 不特定多数の患者に投与される。臨床試験では想定していなかった併用、想定していなかった既往症、想定していなかった用法 ── その中で、致命的な未知のリスクが浮かび上がる。
そこを 能動的に監視する仕組みが、1979年改正の市販後監視制度には欠けていた。
1994年10月、厚生省は「医薬品安全性確保対策検討会」を立ち上げる。ソリブジン事件の検証と制度改善案の取りまとめ。
1996年、改正薬事法 ── 市販後段階での情報収集・報告・基準資料提出の義務化、GCP (Good Clinical Practice) 遵守の義務化。
1997年、GPMSP省令 ── 感染症報告の法制化、外国措置報告の追加、安全性定期報告への変更。
そして、現在の 市販直後調査制度が誕生する。新薬発売後の6ヶ月間、製造販売業者は医療機関を頻回訪問して安全性情報を能動的に収集する ── そういう義務が、制度に書き込まれた。
ソリブジンが死角を突き、制度が応答した。
薬害肝炎、長い不作為の20年
ところが、もう一つの薬害は、既に進行していた。時間の長さが、全く違う薬害だった。
1964年、ミドリ十字 ── 薬害エイズで非加熱血液製剤を売り続けた 同じ会社 ── が、フィブリノゲン製剤「フィブリノゲン-ミドリ」を発売する。実は、エイズに先立って、薬害肝炎の当事者でもあった。
産科出血や凝固障害の治療に使う血液製剤だった。これが、20年以上にわたって日本の医療現場で使われ続けた。
そして、肝炎ウイルスの汚染が、長期にわたって患者を蝕んだ。
推定投与患者数 約29万人。推定肝炎感染者数 1万人以上。多くがC型肝炎を発症し、肝硬変・肝がんへ進行した。
ここに、1979年改正の 二つ目の死角があった。過去の判断ミスが、長い時間をかけて被害を蓄積していく。これを早期に発見し止める仕組みが、当時の制度にはなかった。
具体的にどんなミスだったか。
1977年、米国FDAがフィブリノゲン製剤の承認を取り消した。理由はB型肝炎感染リスク、有効性への疑問、代替治療の存在。この情報は、1978年1月にはミドリ十字社内で回覧されていた。
なのに、日本では販売継続。
いくつかの理由が複合していた。産科出血止血の頼みの綱として医療現場で定着していたこと。代替治療 (新鮮凍結血漿など) の供給体制が未整備だったこと。米FDA情報を日本の規制が能動的に取り込む仕組みがなかったこと。そして企業は、主力商品として販売継続を選択した。
規制側・医療現場側・企業側、すべての層が販売継続に作用していた。
そして 1986年9月から1987年4月、青森県三沢市の産婦人科医院で、産婦8名が非A非B型肝炎 (現在のC型肝炎) に集団感染する。
報道は1987年4月18日。同月20日に非加熱製剤を自主回収、4月30日に加熱処理製剤を承認。だが、現場では非加熱在庫が残存し、しばらくは並行流通した。
1979年改正後、副作用報告制度はあった。だが「海外の規制情報を遅滞なく取り込む仕組み」「過去の在庫の流通停止を強制する仕組み」── これらは、当時の制度には不十分にしか存在しなかった。
20年が経った。患者の体内では、ウイルスがゆっくり仕事を続けていた。
血を扱うビジネス、その重さ
ここで、もう一つの角度を補っておきたい。
血液製剤ビジネスは、構造的に最高クラスのリスクを抱える業態だった。原料は人の血液。ドナー由来の未知病原体は常に潜在し、それを検出する技術は、新興感染症の発見より遅れて到着する。複数のドナーをプールして濃縮するため、1人の感染が大量の受給者に拡散する。
HIVもHCVも、検査技術が確立する数年から十数年前から、既に血液製剤の中を流れていた。
だからこそ、企業の選択の重みは大きかった。
売血依存のリスクは知られていた。1977年米FDA承認取消の情報も社内に届いていた。非加熱在庫を全て回収する選択肢もあった。それでも、市場流通が選ばれた。
構造的にリスクの高いビジネスだったからこそ、許容できないリスクを企業が引き受けた時、そのコストは消費者・患者に転嫁された。当時の1979年改正には、企業の選択を止める仕組みがそもそも組み込まれていなかった。
そして、もう一つの事件が、20年後に表に出る。
隠されていた418人、2002-2007年
2002年8月、厚生労働省が薬害肝炎の調査過程で、三菱ウェルファーマ (旧ミドリ十字の流れ) から提出された文書を受け取った。
三菱ウェルファーマが厚労省に提出したのは、フィブリノゲン製剤の調査用資料一式だった。製薬会社が公表用に出した版は、個人情報を マスキング (伏字) していた。だが、厚労省に渡された版にはマスキングがなく、実名2名を含む418人分の症例リスト ── イニシャル・氏名・住所・投与日・症状・医療機関名 ── が記載されていた。
だが、告知されなかった。
患者に直接告知するという発想自体が、当時の 役所文化にはなかった。患者保護より組織内手続きが優先される文化。加えて、資料の引継・管理が極めて不十分で、担当局自身が地下倉庫の実名版を把握していなかった。
厚生労働大臣が国会で「個人を特定する情報は持っていない」と答弁する事態になる。
後にこの答弁が地下倉庫の実名版と矛盾することが発覚するまで、5年。その間に、訴訟は進んでいた。
2002年10月、16人の原告が東京・大阪両地裁に提訴。2006年6月、大阪地裁。2007年3月、東京地裁。2007年7月、名古屋地裁。2007年9月、仙台地裁。
各地裁で、国の責任を認める判決が連続した。だが、責任の起点 (国がいつから法的責任を負うか) について、判決はバラバラだった。
そして 2007年10月、地下倉庫の418人リストが発覚する。
舛添要一厚生労働大臣の国会答弁が、過去の答弁と矛盾した。「持っていない」と言ったはずの情報が、実は地下倉庫にあった。国は 20年以上にわたる不作為を続けていたが、それが直近5年の隠蔽でも続いていたことが、明らかになった。
社会の怒りが、政治を動かした。
2008年1月、一律救済
2007年12月13日、大阪高裁が和解案を提示する。「1984年以降の感染に限定」して国責任を認める案。1984年は、加熱処理製剤が登場した年 ── 国がリスクを認識して動けた時期、という法的論理だった。
だが、それでは1964年の販売開始から1984年までに感染した患者は救済から漏れる。1977年の米FDA取消情報も含めれば、責任の起点はもっと前にあるはずだ ── 原告団は拒否した。全員を救済しなければ、訴訟原告以外の数万人の感染者が漏れる。
10日後の 12月23日 (土曜日)、福田康夫 首相が動いた。
自民党総裁として「範囲を限定しない一律救済」を表明。12月25日、首相官邸で原告団と初対面。写真が公開された。
衆参ねじれ国会下 (参院は野党多数)、与野党対決は予想された。だが、対決は起きなかった。
2008年1月11日、参議院本会議で 全会一致可決。1月16日、公布・施行 ── 特定フィブリノゲン製剤及び特定血液凝固第IX因子製剤によるC型肝炎感染被害者を救済するための給付金の支給に関する特別措置法。
長い名前だった。
中身は、訴訟原告以外も含めた 行政給付。1人あたり1,200万円から4,000万円。20年以上の不作為に、国が個別訴訟を経由せずに応答する仕組み。
罪は問えなかった。刑事訴追は最後までなかった。
代わりに 行政給付で応答する ── これが、薬害エイズとは違う、新しい決着の形だった。
イレッサ、2002年
時計を6年戻す。
2002年7月5日、厚生労働省が新しい肺がん治療薬を承認した。
世界初の EGFR阻害剤 (分子標的薬)、商品名「イレッサ錠250」、一般名 ゲフィチニブ。販売はアストラゼネカ。
申請が2002年1月25日、承認が7月5日 ── わずか 5ヶ月の優先審査だった。
マスコミは「夢の抗がん剤」「夢の新薬」と報じた。手術もできない、化学療法も効かない非小細胞肺がんに、ピンポイントで効く新世代の薬。販売開始は7月16日。
患者と家族が、希望と共にイレッサを服用し始めた。
そして、わずか3ヶ月後の 2002年10月15日。
製薬会社から22例 (うち死亡11例)、医療機関から4例 (うち死亡2例) の 間質性肺炎 報告。同日、厚生労働省が 緊急安全性情報 発出を指示、添付文書の警告欄を改訂した。
承認時点では、添付文書の「重大な副作用」の 4番目に「間質性肺炎 (頻度不明)」と書かれていただけだった。
そして、最終的に、イレッサによる副作用死亡は 約834人に達した。
ここに、1979年改正の 三つ目の死角があった。新規モダリティのリスクである。
世界初の分子標的薬。過去の経験則 (化学療法剤の副作用パターン) では予測できない、新しいリスクパターン。
具体的には、後の研究で「日本人特有の間質性肺炎リスク」── EGFR遺伝子変異の人種差 ── が論じられた。
承認時、国内臨床試験では133人中3人が間質性肺炎を起こしていた (全員回復)。海外の治験では1万人以上に投与され、間質性肺炎は約10例。
数字は小さく見えた。
だが、日本人で大規模に投与された途端、致命的な肺障害が次々と起きた。「予測できなかった」と言うのか、「予測すべきだった」と言うのか。
その問いに、日本の司法は判決を出すことになる。
「医師が知っていたはず」、2013年
2004年、大阪11人・東京4人の遺族計15人が、国とアストラゼネカを相手取って提訴した。製造物責任法と国家賠償法違反。
訴訟は長引いた。
2011年2月、大阪地裁 ── 製薬会社の第1版添付文書責任を一部認定、国責任は否定。2011年3月、東京地裁 ── 国・製薬会社の責任を一部認定。
両地裁が 和解勧告。原告団は受け入れた。
だが、国と製薬会社は和解を拒否した。訴訟は最高裁まで進んだ。
2013年4月12日、最高裁第三小法廷、裁判官全員一致で全面敗訴確定。
論理は、こうだった。
「副作用の存在が直ちに製造物の欠陥を意味するものではない」。「引渡し時点で予見し得る副作用について、必要な情報が適切に与えられることにより、通常有すべき安全性が確保される」。「通常想定される処方者は 肺がん治療を行う医師であり、その医師には、イレッサ投与により間質性肺炎が 致死的となり得ることを認識するのに困難はなかった」。
医師が知っていたはず、というロジックだった。第1版添付文書の記載が不適切とは言えない ── そう、最高裁は判じた。
サリドマイド・スモン・薬害エイズと続いた薬害訴訟史の中で、国と企業ともに 無罪が確定した稀な事例になった。
原告団の声明は、痛烈だった。「医師の専門性に責任を転嫁する判決」「患者・遺族は、信じて服用した結果として命を失った」── 司法の論理と被害感情の溝は、埋まらなかった。
そして、ここに、もう一つの偶然があった。
最高裁判決の 12日前、2013年4月1日。厚生労働省は 医薬品リスク管理計画 (RMP: Risk Management Plan) 制度を施行していた。
新医薬品・バイオ後続品の承認時に、安全性検討事項・監視計画・リスク最小化計画を文書化することを必須化。「売る前に予測し、売った後に検証し、リスク最小化計画で対処する」── 三層構造で、薬の生涯安全性を能動的に管理する制度。
イレッサに当てはめると、何が変わるか。
承認時点で23例 (うち13例死亡) を抱えていた間質性肺炎は、RMPの下では 重要な特定されたリスクとして真っ先に明文化される。添付文書の警告欄筆頭、医療従事者向けの患者選定基準、患者向けの同意書、全例調査による集中監視 ── これらが承認時から制度的に組み込まれる。
もちろん完全な予測ではない。新規モダリティの未知のリスクを全て事前に解消する仕組みではない。だが、承認時点で見えていた死亡13例を、添付文書の4番目に埋もれさせることはなくなる。
イレッサが死角を突き、制度が応答した。
司法は罪を問わず、制度は応答する ── 2013年4月、その2つが同時に動いた。
罪を問わない薬害対応、その意味
3つの薬害、3つの死角、3つの制度応答。
| 事件 | 死角の種類 | 制度の応答 |
|---|---|---|
| ソリブジン (1993) | 相互作用 | 市販直後調査 (1996-97) |
| 薬害肝炎 (1996-2008) | 過去の不作為 | 救済法 (2008) |
| イレッサ (2002) | 新規モダリティ | リスク管理計画 RMP (2013) |
時間軸の死角 (市販直後の数週間)、記憶の死角 (過去のミスの長期化)、モダリティの死角 (新しい薬の未知のリスクパターン)。1979年改正が作った市販後監視制度に、それぞれ別の方向から穴があった。
そして、3つに共通する特徴があった。
いずれも刑事責任は問われなかった。
薬害エイズでは官僚個人が 不作為で有罪となった。「動かないことが犯罪になる」という、戦後薬害史でも稀な決着だった。
だが、ソリブジン以降の薬害は、刑事訴追まで至らず、最高裁判決まで進んだイレッサも国・企業ともに無罪が確定した。
代わりに、制度は 行政給付・制度設計で応答した。これが「罪を問わずに制度で応答する」現代型薬害対応の起源である。
このやり方を、二つの観点で評価できる。
一つは、被害者救済の広がり。福田康夫が政治決断した薬害肝炎救済法は、結果として個別訴訟を経由しない数万人の感染者を救った。明確な前進である。
もう一つは、官僚個人の動機付けの変化。「動かないことが犯罪になる」緊張感は、薬害エイズで一度きりだった。以後、薬害が起きても、刑事責任の脅威は遠ざかった。
これには両面がある。短所としては、緊張感が消えた分の油断。長所としては、過度な慎重さ ── 海外で承認された薬を日本が認可しない「動かないリスク」 ── を回避する方向にも、官僚は動けるようになった。
「動くリスク」と「動かないリスク」、両方を制度的に抱える時代になった。
そして、もう一つ、決定的な変化があった。
薬害は、もはや 特定の犯人 (特定の医薬品メーカーや特定の官僚) を裁いて終わるものではなくなった。代わりに、制度の死角を埋め続ける終わりなき作業になった。
ソリブジンから市販直後調査、薬害肝炎から救済法、イレッサからRMP ── 3つの応答は、いずれも次の死角に対する完全な備えではない。死角はまた別の方向から現れ、また制度が応答する。
そして、その制度応答の集大成として、シリーズの次の物語 ── 2014年、薬事法から薬機法へ ── が来る。
「薬機法」という現在の名前は、ここまでの全部を背負って生まれた名前だった。
FAQ
ソリブジン事件とは何ですか?
1993年9月3日に発売された帯状疱疹治療薬「ユースビル錠」(主成分ソリブジン、日本商事製造、エーザイ販売提携) が、抗がん剤フルオロウラシル系 (5-FU) との相互作用で致命的な血液障害・消化管障害を引き起こし、発売わずか5週間で出荷停止になった事件です。最終的に副作用23例 (うち死亡14例) を出しました。ソリブジンは腸内細菌でブロモビニルウラシルに代謝され、これが5-FUの代謝酵素DPDを不可逆阻害して血中濃度を異常上昇させるメカニズムでした。事件後、1994年10月に厚生省「医薬品安全性確保対策検討会」が立ち上がり、1996年改正薬事法・1997年GPMSP省令を経て、現在の市販直後調査制度が誕生しました。
薬害肝炎の418人リスト隠蔽事件とは?
2002年8月、厚生労働省が薬害肝炎の調査過程で三菱ウェルファーマから受け取った文書の中に、フィブリノゲン製剤によってC型肝炎に感染した418人分の症例リスト (氏名・住所・投与日・症状・医療機関名を含む) が混入していました。個人を特定できる情報が含まれながらも、厚生労働省と製薬会社は5年間にわたって患者本人にも家族にも告知せず、地下倉庫に保管したままにしていました。2007年10月に発覚し、舛添要一厚生労働大臣の国会答弁が過去の答弁と矛盾する事態に。社会の怒りが政治を動かし、福田康夫首相が「一律救済」を表明、2008年1月11日に薬害肝炎救済特別措置法が参議院本会議で全会一致可決されました。
イレッサ訴訟の最高裁判決はなぜ全面敗訴になったのですか?
2013年4月12日の最高裁第三小法廷判決は、(1)副作用の存在が直ちに製造物の欠陥を意味するものではない、(2)引渡し時点で予見し得る副作用について必要な情報が適切に与えられれば安全性は確保される、(3)通常想定される処方者は肺がん治療を行う医師であり、その医師にはイレッサ投与により間質性肺炎が致死的となり得ることを認識するのに困難はなかった、と判示し、裁判官全員一致で原告の上告を棄却しました。第1版添付文書の「重大な副作用」の4番目に「間質性肺炎 (頻度不明)」と記載されていたことが、適切な情報提供にあたると判断されたためです。患者・遺族側からは、医師の専門性に責任を転嫁する判決として強い批判が出ました。
1979年改正後も薬害が続いたのはなぜですか?
1979年薬事法改正は「売る前に審査、売った後も監視」を制度化しましたが、3つの方向に死角がありました。(1)時間軸の死角 ── 市販直後の数週間に致命的な相互作用が発覚しても、十分な集中監視の仕組みがなかった (ソリブジン)。(2)記憶の死角 ── 1977年米FDA承認取消などの過去の判断ミスや海外規制情報を遅滞なく取り込む仕組みが不十分だった (薬害肝炎)。(3)モダリティの死角 ── 新世代の分子標的薬のような、過去の経験則では予測できない新しいリスクパターンに対応できなかった (イレッサ)。これら3つの死角に対して、1996年市販直後調査、2008年薬害肝炎救済法、2013年医薬品リスク管理計画 (RMP) という制度応答が積み重ねられました。
薬害エイズと違って、この3つはなぜ刑事責任を問えなかったのですか?
薬害エイズでは、国 (松村明仁元生物製剤課長) とミドリ十字三社長が、危険性を認識しながら積極的に行動せず被害を拡大させた「不作為」が刑事責任 (業務上過失致死) で裁かれました。これは「危険を認識した上での意図的な放置」というシナリオが立証可能だったためです。ソリブジン・薬害肝炎・イレッサの3つは、それぞれ別の事情で同じシナリオが立証困難でした。ソリブジンは市販前の臨床試験では検出できなかった相互作用、薬害肝炎は組織的・長期的な不作為で個人責任の特定が困難、イレッサは新規モダリティのリスクで「予見可能性」のハードルが高かった ── 結果、いずれも刑事訴追には至らず、行政給付・制度応答で決着しました。これが「罪を問わずに制度で応答する」現代型薬害対応の特徴です。