薬機法 読了 23 分

薬機法、2014年 — iPS細胞が動かした法律

1960年から続いた薬事法は、2014年11月25日に薬機法と名前を変えた。

動かしたのは、手術下手で「ジャマナカ」と呼ばれた研修医が、米国留学とPADを経て発見した iPS細胞だった。

目次 (10 章)
  1. 薬事法が背負ってきたもの
  2. 「ジャマナカ」と呼ばれた研修医
  3. 24から4へ、2006年8月
  4. 2007年、世界が並走した
  5. ストックホルムへの50年、2012年
  6. 13ヶ月で動いた政府、2013年
  7. 三つの新要素
  8. 「薬機」という名前
  9. FAQ
  10. 参考文献

2014年(平成26年)11月25日。その日、ある法律の名前が変わった。

1960年(昭和35年)から続いた「薬事法」が、「医薬品、医療機器等の品質、有効性及び安全性の確保等に関する法律」── 略称「薬機法」── として施行された。

法律番号は変わらない。昭和35年法律第145号のまま。つまりこれは新法ではなく、改正だった。だが、名前と中身が大きく変わった。

これは GuidelineChecker のコラム 32本目、薬機法シリーズの 10本目である。前回の 三つの薬害、1993-2008年 で、1979年改正の制度が3つの方向から死角を突かれ、市販直後調査・救済法・RMPが積み重ねられていく姿を辿った。今回は、シリーズタイトルそのもの ──「薬機法」という名前が生まれた日の物語である。

動かしたのは、手術が下手で「ジャマナカ」と呼ばれた研修医だった。


薬事法が背負ってきたもの

シリーズで辿ってきた100年は、薬事法の100年だった。

1914年の売薬法 ── 売り薬の登録・税制から始まった、医薬品規制の起点だった。1948年に戦後の旧薬事法、1960年に現行の薬事法。

そこから、薬事法は事件を背負い続けた。1962年のサリドマイド、1970年のスモン ── 2つの薬害が、1979年改正で「売る前に審査、売った後も監視」を制度化させた。

1971年の四十六年通知 は「食品で効能を書いたら薬とみなす」と告げ、食品と薬の境界を引いた。

1985年の薬害エイズ で、官僚個人が不作為で有罪となった。戦後薬害史で稀な決着だった。

1991年、特定保健用食品 が46通知の壁に最初の穴を開ける。世界初の機能性食品認証制度だった。

1993-2008年の 三つの薬害 ── ソリブジン、薬害肝炎、イレッサ ── が、1979改正の3つの死角を別々の角度から突いた。死角を埋める対策として、市販直後調査・救済法・RMPが積み重ねられた。

100年の蓄積だった。それぞれの事件が制度を厚くし、事件のたびに法律の条文が増えていった。

しかし、法律の名前だけは変わらなかった。1948年の旧薬事法から、ずっと「薬事」だった。

そして 2014年 ── 一人の研究者が、この法律を動かす。


「ジャマナカ」と呼ばれた研修医

2014年から、27年さかのぼる。

1987年、神戸大学医学部を卒業した 山中伸弥 (25歳) は、国立大阪病院 整形外科で研修医として、医師の第一歩を踏み出した。整形外科を選んだ理由は、自身がラグビーで度重なる骨折・脱臼を経験し、整形外科医に救われた記憶があったからだった。

だが、現実は厳しかった。うまい人なら20分で終わる手術に、2時間かかった。

指導医が見かねて言った。「ジャマナカ。お前は本当に邪魔や」。

最初に担当したリウマチ患者は、全身の関節がみるみる変形する重症だった。手術しても、根本的に治せない。

そして、もう一つの挫折があった。

1988年頃、山中の父親が亡くなる。技術者だった父親の死因は、C型肝炎ウイルスによる肝硬変。当時はまだウイルス自体が発見されておらず (HCV発見は1989年)、治療法もない病気だった。

医師である息子は、父親を救えなかった。

治療の手立てがない病気を、研究で治したい」── 1989年、父親の死の翌年、山中は大阪市立大学大学院 薬理学博士課程に入学、分子生物学の道に転じる。

1993年、博士号取得。米サンフランシスコの グラッドストーン研究所にポスドク留学。3年間、英語で議論する同僚、活発なセミナー、研究費の自由 ── 米国の研究文化に身を浸す。

ここで山中は、生涯のモットーを身につける ── 「VW (Vision and hard Work)」。ビジョンを持ち、徹底的に働く。

1996年、帰国。大阪市立大学医学部 薬理学教室 助手として赴任した。

そして、暗黒期が始まる。

研究費はなかった。英語で議論する同僚はいなかった。100匹を超えるマウスの世話を、自分でやる毎日。

自分は研究者なのか、それともネズミの世話人なのか」── 山中は、後にこの状態を「PAD (Post America Depression、米国留学後うつ病)」と呼ぶようになる。3年間、PADは続いた。

研究を諦め、民間病院の整形外科医に戻ろう ── そう決断しかけた山中に、母親から電話が入った。

お父ちゃんが夢枕に立って、伸弥に『もう一度考え直すように』と言っていたよ」。

山中は思った。「夢枕などという非科学的なことを言われても」── だが、少し決心が揺らいだ。

そこに、知らせが届く。奈良先端科学技術大学院大学 (NAIST) 助教授として、自分の研究室を持てる。1999年12月、PADから抜け出す転機だった。


24から4へ、2006年8月

NAISTは当時、新興の研究機関だった。若手研究者に自由を与える環境があった。

山中は研究テーマを定めた ── 「細胞のリプログラミング (初期化)」。

分化した細胞 ── 皮膚、肝臓、心臓など ── は、一度分化すると元に戻らない。これが医学の常識だった。

受精卵から始まる細胞は、分裂しながら「皮膚」「肝臓」「神経」と運命を決めていく。役割が決まった細胞は、その役割を忘れない。

しかし、細胞のDNA自体は、どの細胞でも受精卵と 同じ。違うのは「どの遺伝子をオンにしているか」だけ。皮膚細胞は皮膚遺伝子をオン、肝臓遺伝子をオフにしている。

もしそのオン/オフを書き換えられれば、戻れるのではないか」── これが山中の発想だった。それでも、長らく 不可能と思われていた。

なぜ「戻す」ことが重要なのか。

人体の「万能細胞」── どんな細胞にもなれる状態の細胞 ── は、当時は ES細胞 (胚性幹細胞) しか知られていなかった。だがES細胞は 受精卵を破壊して作るため、倫理的問題が大きい。さらに 他人の細胞由来なので、移植すれば拒絶反応が起きる。

もし、患者本人の皮膚細胞を「戻して」万能細胞にできれば。

ES細胞の倫理問題は消える。拒絶反応もない。患者本人の細胞から、失った臓器の細胞 ── 心臓、肝臓、神経 ── を作れる。

「治療法のない病気を治したい」── C型肝炎で父を失った山中の動機が、ここで研究テーマと結びつく。

山中の発想はシンプルだった。「ES細胞に多く発現している遺伝子を、分化した細胞に入れれば、戻せるのではないか」。

最初に山中は、ES細胞でだけ働く遺伝子を片端から見つけにかかる。「ECAT」と命名された遺伝子群。その中から NanogERas の機能を解明し、2003年に英 Nature誌と米 Cell誌に発表する。

PADの暗黒期から3年。山中は、世界の幹細胞研究の最前線に立っていた。

そこに、大学院生 高橋和利が加わる。後に「iPS細胞のもう一人の主役」と呼ばれる人物だった。

二人は、ES細胞に多く発現する 24個の遺伝子を候補としてリストアップした。

最初の実験 ── 24個を同時に細胞に導入する。すると、ES細胞のような細胞が現れた。この中に、初期化の鍵が含まれていることが分かった。

問題は、24個のうち どれが鍵かだった。

ここで、高橋和利が決定的な提案をする ──「あまり難しく考えないで、導入する遺伝子を1個ずつ減らしてみてはどうか」。

24個から1つずつ抜く実験 ── 23遺伝子・22遺伝子・21遺伝子... と減らしていく。気の遠くなるような組合せ実験を経て、二人は4つの遺伝子に辿り着く。

Oct3/4・Sox2・c-Myc・Klf4

後に「山中ファクター」と呼ばれる、4つの遺伝子だった。

2003年、山中はNAISTで教授に昇任。翌2004年、京都大学再生医科学研究所 教授に移籍。研究はそのまま継続された。

そして 2006年8月10日

米国科学誌 Cell にオンライン公開。マウスの皮膚細胞 (繊維芽細胞) に4遺伝子を入れて、多能性幹細胞に戻すことに成功した。

induced Pluripotent Stem cells」── iPS細胞、と山中は名付けた。小文字の "i" にしたのは、Apple のiPod から発想したのだという。

世界中の研究者が驚いた。「本当か?」── 再現性確認の動きが、即座に世界中の研究室で始まる。


2007年、世界が並走した

マウスで成功した次のターゲットは、ヒトの細胞だった。

ヒトiPS細胞が作れれば ── 患者本人の細胞から、任意の臓器を作れる。拒絶反応のない再生医療が、見えてくる。

山中チームは突き進んだ。だが、同じゴールを目指していたのは、太平洋の向こうにもいた。

ジェームズ・トムソン、ウィスコンシン大学。

経歴は異色だった。獣医学博士 (1985年) と 分子生物学博士 (1988年)、二つの学位を持つ発生学者。専門は霊長類の初期発生だった。

1995年、彼は世界で初めて アカゲザルES細胞を作り出す。そして 1998年11月世界初のヒトES細胞を作成、Science誌に発表した。再生医療の扉を、山中より10年早く開けた人物だった。

だが、2001年。ブッシュ米大統領が「胚を破壊する研究」への 連邦資金提供を停止する。

ES細胞は受精卵を破壊して作るため、宗教保守派から強い反発を受けていた。米国のES細胞研究は表向き止まり、Thomsonは 私的資金 (バイオ企業 Geron 社等) で研究を続けることになる。

倫理論争の最前線で、Thomsonは10年を耐えた。

そして 2007年11月20日。山中チームは ヒトiPS細胞作成成功を Cell誌に発表する。

同日、Thomson も独立してヒトiPS細胞作成成功を Science誌に発表した。

二人のアプローチは異なっていた。山中は 成人皮膚細胞 + 山中ファクター4遺伝子 (Oct3/4・Sox2・c-Myc・Klf4)。Thomsonは 胎児皮膚細胞 + 異なる4遺伝子 (Oct3/4・Sox2・Nanog・Lin28)。

共通するのは Oct3/4 と Sox2 ── 多能性のマスター遺伝子。残りの2遺伝子は別々の組合せだった。「戻す力」を持つ遺伝子の組合せは1つではなく、両者が別ルートで有効解を見つけたことになる。

成人皮膚 (山中) も胎児皮膚 (Thomson) も、胚 (受精卵) は破壊しない。太平洋の両側、別ルートで、同日に到達した ── ES細胞を必要としないヒト万能細胞。倫理論争を回避する別ルートが、二人並走して見つかった瞬間だった。

翌2008年、TIME誌「世界で最も影響力のある100人」── 山中と Thomson、二人並んでの掲載。競争ではなく、相補的な発見として歴史に記録された。

「ヒトiPS細胞」は、もう一人の天才と並んで完成した技術だった。


ストックホルムへの50年、2012年

2010年、京都大学 iPS細胞研究所 (CiRA) 設立。山中が初代所長に就任。

iPS研究は指数関数的に拡大していく。世界中の研究者が、再現実験から応用研究にステージを移す。

そして 2012年10月8日 (月曜日)

ストックホルムから電話が入った。ノーベル生理学・医学賞。発見からわずか 6年、異例の早さだった。

共同受賞者は、英ケンブリッジ大学の ジョン・ガードン (79歳) だった。

ガードンは1962年、画期的な実験を発表していた。オタマジャクシの腸上皮細胞の核を、除核したカエルの卵に移植する。すると、その細胞核から カエル全身が再生された。

これは、分化した細胞も初期化できる、ということを世界で初めて示した実験だった。

1962年から、50年。

ガードンが 核移植で示した可能性を、山中が 4遺伝子の薬剤的アプローチで完成させた。ノーベル委員会は、両者を「分化した細胞は多能性を持つ細胞に初期化できる」という1つの発見として評価した。

山中は記者会見で言った。「ガードン先生の仕事がなければ、我々の仕事もあり得なかった」。

会見の口調は、浮かれていなかった。「iPS細胞はまだ新しい技術。本当の意味で医学や新薬の開発に役立ったと言えるところまで来ていない」。

そして続けた。「国の支援のたまもの」。

iPS研究は国家戦略の最優先テーマだった。山中は、政府・国民への明示的な謝意を述べた。

その謝意は、翌年、政府を本格的に動かす。


13ヶ月で動いた政府、2013年

ノーベル賞授賞から、政府の反応は速かった。

2012年12月: 内閣府総合科学技術会議で iPS研究の重点投資が決定。10年間で1,000億円超の予算計画。

2013年5月: 再生医療推進法 ── 議員立法 ── が成立した。「再生医療の実用化までの施策を総合的に推進する」と書かれていた。

そして 2013年6月14日、安倍政権は「日本再興戦略」を閣議決定する。

アベノミクスの3本目の矢、成長戦略の柱として、再生医療を産業の柱に位置付けた。「5年以内に再生医療等製品の実用化を実現する」と明記された。

iPS細胞は、もはや基礎研究の対象ではなかった。日本がiPS細胞で世界を牽引するという国家戦略の中心だった。

ノーベル賞はトリガーにすぎない。安倍政権がここまで再生医療に注力した理由は、別にあった。3つ挙げられる。

第1に、アベノミクス第三の矢「成長戦略」の目玉が必要だった。第一の矢 (金融緩和) と第二の矢 (財政出動) は具体的だったが、成長戦略は中身が曖昧で「何で成長させるのか分からない」と批判されていた。

そこに、山中ノーベル賞 (2012年10月) → 衆院解散 (11月) → 安倍政権発足 (12月) のタイミングが完璧に重なった ── 「日本発・世界初・国民が理解しやすい」3拍子のシンボルがちょうど降ってきた。

第2に、経産省試算で2050年に世界53兆円市場。日本がシェアの一部を取れば、自動車・半導体に続く「次の産業の柱」になりうる規模だった。科学振興ではなく 産業政策として正当化できた。

第3に、これが アベノミクスの本命「岩盤規制改革」のテストケースになった。厚労省は最強の保守官庁。ここを動かせれば他の規制改革も動かせる。「日本の規制が遅いから日本発の技術が国内で実用化できない」というストーリーは、薬機法改正を岩盤改革の実績として使うのに好都合だった。

加えて、米国はブッシュ政権 (2001-2009) の連邦予算ES細胞研究禁止の余波で遅れていた。オバマで緩和されても倫理論争は根強く残った。iPSは ES細胞由来の倫理問題を回避できる、日本が先行できる稀有な領域 ── 「日本だから勝てる」分野は他に多くなかった。

そして 2013年11月27日、衆議院。「再生医療3法」── 再生医療推進法 + 再生医療等安全性確保法 + 改正薬事法 ── が、同日で成立した。

ノーベル賞から、13ヶ月。これは、医療法制改正としては 異例の速さだった。通常の改正サイクル (5-10年) と比べて、桁違いだった。

反対勢力は弱かった。製薬団体は 新カテゴリ歓迎、医療機器団体は 独立規制歓迎、再生医療学会は 早期承認制度歓迎。消費者団体・薬害被害者団体は「早すぎる」と懸念したが、政治の勢いに押された。

2014年11月25日、改正薬事法施行 ── 薬機法の誕生。


三つの新要素

何が変わったか。3つの大きな変更だった。

1. 再生医療等製品 (第3のカテゴリ)

旧薬事法では、医療に使う「物」は 医薬品医療機器の 2カテゴリだった。

そこに第3のカテゴリ ── 再生医療等製品 ── が加わった。対象は 細胞加工製品 (iPS細胞・ES細胞・体細胞由来) と 遺伝子治療用製品

人の細胞・組織は、化学物質を量産する「薬」とは性質が違いすぎる。個別性が高く、生きた状態で扱う必要がある。これらを従来の医薬品枠に強引に入れていた制度の歪みが、ここで解消された。

2. 条件・期限付き承認制度

少数の患者で 有効性のヒントが得られた時点で、安全性を確認した上で 条件・期限付きで承認する制度。

5年〜7年の期限内に、本承認の判定 → 不承認なら市場撤退。

患者数が少ない再生医療で、従来型の大規模治験を待っていたら間に合わない。それを救う制度だった。

ただし、世界初の制度だった。海外からは「早すぎる」「患者にリスクを転嫁している」との批判もあった (英 Nature が痛烈に批判)。

三つの薬害を経て承認審査を厳格化してきた厚労行政が、なぜ正反対の「迅速承認」に踏み込めたのか。理由は3つある。

第1に、リスクの構造が違った。三つの薬害は「未知の副作用」が問題だった。再生医療等製品 ── 特に患者自身の細胞由来の自家iPS製品 ── で問題になるのは「効くか効かないか」であって、副作用ではない。「拙速承認 → 死亡」というスキーマが、そのままでは当てはまらない。

第2に、治験デザインの技術的限界があった。細胞医療は個体差が大きく、従来の二重盲検RCTが現実的に組めない。患者数も希少疾患レベル。有効性証明を従来基準で待っていれば、永遠に承認できない。

第3に、制度設計に薬害の教訓を埋め込んだ。「条件」= 全例市販後調査義務、「期限」= 最長7年で再評価。承認後の監視を強化する設計で、薬害肝炎が遺した「市販後安全対策の強化」という宿題と矛盾しないかたちにした。

そして、これを上から後押ししたのが政治だった。2013年「日本再興戦略」で再生医療を国家最優先テーマに据え、健康・医療戦略推進法で内閣官房に司令塔を置いた。厚労省単独の判断ではなくなっていた。

それでもなお、Natureの批判には正当な指摘があった。「効くか効かないか不確実」な製品を健康保険で支払うこと、患者への説明が本当に十分か、後続の再評価が形骸化しないか ── これらは、続く10年の論点になる。

3. 医療機器プログラム (SaMD)

3つ目の変更は、より静かなものだった。

ソフトウェア単体が、医療機器として承認・規制される。例: MRI画像解析AI、診断補助アプリ、副作用管理スマホアプリ、手術ナビゲーション。

これが、現代の 医療AI規制の起点になる。

3つの新要素は、共通して「従来の薬の枠を超えるもの」だった。だからこそ、法律の名前も変わる必要があった。


「薬機」という名前

薬事」── 1948年の旧薬事法から1960年の現行法律まで、66年使われた名前。

意味は「薬の事務」。薬を製造し、流通させ、販売するための 業の規制が中心だった。許認可、登録、指導 ── 主に事務の問題として。

薬機」── 2014年に新しくなった名前。

意味は「薬と機器」。「機」は 医療機器であり、機能 (有効性) でもある。

つまり、法律の 対象の重心が変わったことを意味する。業の規制から 物 + 性能の規制へ。

薬事 = → 薬機 =

その「物」には、いまや細胞も、組織も、ソフトウェアも含まれる。

コラム 32本目、薬機法シリーズの 10本目。ここまで読んできた読者は、もう気付いている。

このシリーズの名前 ──「薬機法」── は、ここで生まれた名前だった。

1914年の売薬法から始まった医薬品規制の100年が、いったん2014年で 新しい名前を得た。サリドマイドとスモンが制度を厚くし、四十六年通知が境界を引き、薬害エイズが刑事責任を問い、トクホが例外を作り、三つの薬害が法改正を積み上げた。

それらすべての蓄積を、ジャマナカと呼ばれた研修医が ── 父親をC型肝炎で失い、医学に「治療法のない病気」があることを知った息子が ── 発見した 4つの遺伝子で、2014年に新しい名前で総括した。

前回扱った薬害肝炎は、フィブリノゲン製剤による C型肝炎感染だった。山中の父親が亡くなった病気と、同じウイルスだった。

「治療法のない病気を治したい」── 父を失った息子の動機は、医薬品規制の100年を更新する力になった。

そして、薬機法は走り出す。ハートシートの認可と不承認、医療AI規制の本格化、紅麹事件と機能性表示食品制度の見直し ── 物語は続いている。

シリーズの名前は、ここで生まれた。


FAQ

山中伸弥はどんな経歴の医師ですか?

1962年大阪府東大阪市生まれ、神戸大学医学部 (1987年卒業)。当初は整形外科医を志しましたが、国立大阪病院での研修中に手術が下手で「ジャマナカ」(お前は邪魔だ) と呼ばれる挫折を経験。1989年に大阪市立大学大学院薬理学博士課程に入って研究の道に転じます。1993年から3年間、米サンフランシスコのグラッドストーン研究所に留学、ここで「VW (Vision and hard Work)」のモットーを得ました。帰国後は研究費もなく「PAD (米国留学後うつ病)」に陥り、3年間マウスの世話に追われる暗黒期を経験。1999年に奈良先端科学技術大学院大学 (NAIST) 助教授に着任して PADから抜け出し、2004年京都大学教授に移籍。2006年にマウスiPS細胞作成成功、2010年に京大iPS細胞研究所 (CiRA) 初代所長就任、2012年にノーベル生理学・医学賞を受賞しました。

iPS細胞は何で「戻る」のですか?

胚盤胞期 (受精後5-7日) の内部細胞塊は、まだどの細胞にも分化していない多能性状態にあります。これがES細胞の元です。一方、胎児や成人の分化した細胞は既に皮膚・肝臓・心臓などに分化済みで、自然には戻りません。山中の発見は、ES細胞で発現している4つの遺伝子 (山中ファクター: Oct3/4・Sox2・c-Myc・Klf4) を分化した細胞に導入すると、エピジェネティック状態が初期化されて多能性に戻る、というものでした。Thomsonは戻しやすい胎児皮膚細胞 + 別の4遺伝子 (Oct3/4・Sox2・Nanog・Lin28) で達成しましたが、共通するのは Oct3/4 と Sox2 のみで、残り2遺伝子は別々です。「戻す力」を持つ遺伝子の組合せは1つではなく、両者が別ルートで有効解を見つけた格好です。山中は戻しにくい成人皮膚細胞でも戻せることを示し、これが患者本人の細胞から再生医療を作る道を開きました。

iPS細胞はどうやって作られたのですか?

山中伸弥と当時大学院生の高橋和利が、ES細胞 (胚性幹細胞) に多く発現する24個の遺伝子を候補としてリストアップ。最初に24個を同時に分化した細胞に導入したところES細胞のような細胞が現れ、この中に初期化の鍵があると判明。「1つずつ減らしてみては」という高橋の提案で、24個から1つずつ抜く膨大な組合せ実験を行い、最終的に4つの遺伝子 ── Oct3/4・Sox2・c-Myc・Klf4 ── を特定しました。これが「山中ファクター」と呼ばれる4遺伝子です。2006年8月10日に米国科学誌 Cell にマウスiPS細胞作成成功を発表。「induced Pluripotent Stem cells」の頭文字を取ってiPS細胞、小文字の "i" にしたのは Apple iPod から発想したと山中本人が語っています。

「ジャマナカ」と「PAD」は何ですか?

「ジャマナカ」は研修医時代の山中伸弥のあだ名で、「お前 (山中) は本当に邪魔だ」を縮めた指導医からの呼びかけです。整形外科医として手術が極端に下手で、うまい人なら20分で済む手術に2時間かかったことが由来。「PAD」(Post America Depression、米国留学後うつ病) は山中自身が名付けた状態で、グラッドストーン研究所留学から1996年に帰国した後、英語で議論する同僚も研究費もなく、100匹を超えるマウスの世話を自分でやる毎日で「自分は研究者なのか、ネズミの世話人なのか」と自問するうつ状態に陥ったことを指します。1999年に奈良先端科学技術大学院大学 (NAIST) 助教授に着任して脱出しました。両者とも山中の物語の重要な転換点で、彼自身が公開の場で繰り返し語ってきたエピソードです。

2014年改正の主な変更点は?

3つの大きな変更がありました。(1) 再生医療等製品を医薬品・医療機器と並ぶ第3のカテゴリとして新設 ── iPS細胞・ES細胞由来の細胞加工製品、遺伝子治療用製品が対象。(2) 条件・期限付き承認制度 ── 少数患者での有効性ヒントと安全性確認で5-7年期限付き承認、期限内に本承認の判定。(3) ソフトウェア単体を 医療機器プログラム (SaMD: Software as a Medical Device) として規制対象化 ── MRI画像解析AI、診断補助アプリ、副作用管理スマホアプリなどが対象に。SaMDは現代の医療AI規制の起点になりました。法律の正式名称は「医薬品、医療機器等の品質、有効性及び安全性の確保等に関する法律」、略称「薬機法」または「医薬品医療機器等法」です。

ジョン・ガードンとは誰ですか?

山中伸弥とともに2012年ノーベル生理学・医学賞を共同受賞した英ケンブリッジ大学の発生学者です (受賞時79歳)。ガードンは1962年、画期的な実験を発表しました ── オタマジャクシの腸上皮細胞の核を除核したカエルの卵に移植して、その細胞核から カエル全身を再生させたのです。これは「分化した細胞も初期化できる」ということを世界で初めて示した実験で、リプログラミング研究の起源となりました。1962年から50年後の2012年、山中が4遺伝子の薬剤的アプローチで同じことを実現。ノーベル委員会は両者を「分化した細胞は多能性を持つ細胞に初期化できる」という1つの発見として評価しました。山中は受賞会見で「ガードン先生の仕事がなければ、我々の仕事もあり得なかった」と感謝を述べています。

「薬機法」という略称はいつから?

法律の正式名称「医薬品、医療機器等の品質、有効性及び安全性の確保等に関する法律」は長すぎるため、施行 (2014年11月25日) と前後して厚生労働省・業界・メディアが略称を模索しました。当初は「医薬品医療機器等法」「医薬品等法」などが使われましたが、徐々に「薬機法」が定着し、2010年代後半には公式略称として広く使用されるようになりました。「薬事法」(薬の事務) との対比で「薬機法」(薬と機器) という命名は、法律の対象が「業の規制」から「物+性能の規制」に重心移動したことを反映しています。シリーズ名「薬機法」は、この2014年改正で生まれた略称をそのまま採用したものです。