1985年(昭和60年)5月、東京・板橋。
帝京大学医学部附属病院。手首から出血した血友病患者の腕に、医師は注射針を刺した。
注入されたのは、非加熱の血液凝固第Ⅷ因子製剤だった。米国が2年前に切り替えていた加熱製剤ではなかった。
患者は、HIVに感染した。
11年後、その医師 ── 帝京大学医学部長 安部英 (1916-2005) ── は、業務上過失致死罪で逮捕される。
これは GuidelineChecker のコラム 29本目、薬機法シリーズの 7本目である。前回の Better Business Bureau、1912年 で米国広告自主規制の起源を辿った。本記事は薬機法シリーズに戻り、サリドマイド、1962年 と スモン、1970年 が日本に書かせた 1979年薬事法改正 ── その「市販前審査」と「市販後監視」が、初めて試された薬害事件の話である。
米国の3月、日本の7月
1981年、米国疾病管理予防センター (CDC) が、ある奇病の症例を報告し始めた。
カリフォルニアとニューヨーク、若い男性たちに集中する免疫不全。後に AIDS (Acquired Immune Deficiency Syndrome) と呼ばれることになる病気だった。
患者のなかには、血友病患者が高い比率で含まれていた。
血液製剤からの感染。仮説は、1982年7月16日に CDC が確定する。
そして1983年3月21日、米国 FDA は判断を下した。
血液製剤を 加熱処理 (heat-treated) に切り替える。HIVは熱で不活性化される。非加熱製剤は順次回収する。
米国は、動いた。
日本は、動かなかった。
| 国 | 加熱第Ⅷ因子製剤の認可 |
|---|---|
| 米国 | 1983年3月21日 |
| WHO 加熱製剤使用勧告 | 1985年4月 |
| 日本 (厚生省) | 1985年7月1日 |
その差、2年4ヶ月。
「WHO の勧告が出るまで動かなかった」と説明されることが多い。確かに WHO は1985年4月に加熱製剤の使用を勧告し、日本はその3ヶ月後に承認した。だが米国は WHO を待たずに1983年3月に動いた。「国際合意」は理由ではなく、口実だった。本当の理由は、章を改めて述べる。
その間、米国から輸入された HIV汚染の非加熱製剤が、日本中の病院で血友病患者に投与され続けた。
血友病という病
血友病は、血液が固まりにくい遺伝性の出血性疾患である。
血液には、出血を止めるために働く凝固因子が十数種類ある。そのうちの 第Ⅷ因子 か 第Ⅸ因子 が、生まれつき足りない、あるいは働かない ── それが血友病だ。傷を負っても出血が止まらず、関節内や筋肉内に内出血を繰り返す。X染色体に遺伝するため、ほぼ男性のみが発症する (女性は保因者)。日本の血友病患者は約 5,000人。
治療は、足りない凝固因子を体に補うこと。「血液凝固因子製剤」 ── これが本記事の主役の薬である。
製剤は、健常者の血漿から精製される。当時の非加熱製剤は、数千人から数万人分の血漿をプールして作られていた。ひとりでもHIV感染者が混じれば、製剤全体が汚染される。
血友病患者は、出血を止めるために、生きるために、この製剤を毎週注射する。
毎週、汚染された製剤を打つ ── それが、薬害エイズの構造だった。
帝京大の夏、1983
1983年6月13日、厚生省で「エイズ実態把握に関する研究班」の第1回会議が開かれた。任務は、米国で広がるエイズが日本でどう影響するかを見極めること。
班長に指名されたのは、帝京大学医学部教授 安部英、67歳。1971年に帝京大に招かれ、1980年から医学部長を務めていた、日本の血友病治療の権威だった。
研究班の発足から、わずか22日後の 1983年7月5日、帝京大学医学部附属病院で、血友病患者がエイズで死亡した。日本初の薬害エイズ被害者で、その患者は、安部英の管轄下にあった。
研究班の議論は、当初、明快だった。「非加熱製剤の全面的使用禁止」── 安部自身が、強い対策を主張していた。
だが、研究の中で、彼の立場は変わった。後に「変節」と呼ばれることになる転換である。非加熱製剤の使用継続を、安部は決定した。
研究班の同僚のひとりは、こう述懐している。
「非加熱製剤の継続は間違いと思った。だが、上位教授に反対すれば、自分が学界で孤立すると恐れた」。
権威主義が、ひとつの判断を凍らせた。
ミドリ十字の系譜
非加熱製剤を販売していた製薬企業のひとつに、ミドリ十字があった。
その出自は、戦前にさかのぼる。
1950年、元陸軍軍医中佐 内藤良一 (1906-1982) が、「日本ブラッドバンク」を創業した。日本初の民間血液銀行だった。
内藤は、731部隊 ── 第二次大戦中に細菌兵器開発に従事した陸軍部隊 ── の 石井四郎軍医中将の片腕の一人だった。終戦後、731部隊員の多くが米国への資料提供と引き換えに東京裁判で免責され、戦後社会に復帰した。その復帰先のひとつが、内藤の創業した血液銀行だった。
1964年、商号は ミドリ十字に変わる。血液製剤専業メーカーへの転換だった。
ただし、日本の血液製剤には、構造的な問題があった。
国産の献血だけでは、血友病患者を支える凝固因子製剤の需要を満たせなかった。日本のメーカーは、米国の有償血漿採血センターから原料血漿を輸入していた。
米国の血漿は、安かった。なぜか。売血者が、刑務所収監者やホームレスを含む高リスク群だったからだ。
1970年代末、米国メーカーが「濃縮凝固因子製剤」を開発した。少量で高い効果を発揮する、画期的な薬だった。ただし、ウイルスを不活化する加熱処理はされていなかった。80年代前半、ミドリ十字を含む日本メーカーは、この 米国産の非加熱濃縮製剤を大量に輸入した。安価な売血血漿が原料の、安価な薬として。
内藤良一は1982年に急死する。同じ年、米国 CDC が血液製剤からのHIV感染を報告した。
それから3年。1985年7月、日本でも加熱製剤が承認された。1986年1月、ミドリ十字も加熱製剤の販売を開始した。
しかし、未使用の非加熱製剤は、回収されなかった。
加熱製剤で十分な供給量は確保できていた。それでも、非加熱製剤は売り続けられた。在庫処分のためか、回収コストを避けるためか。1986年、その非加熱製剤を投与された患者が、HIV感染で死亡した。これが、後にミドリ十字3社長の 業務上過失致死罪の直接の事案となる。
戦前の闇を引きずった会社が、安価な売血血漿に依存し、加熱承認後も在庫を売り切ろうとした ── そこに、薬害エイズが拡大した構造があった。
1,800人
被害の規模は、こうなった。
| 数字 | 内容 |
|---|---|
| 約 5,000人 | 日本の血友病患者総数 |
| 約 1,800人 | HIV感染した患者 (全体の約4割) |
| 約 700人以上 | エイズを発症して死亡 |
| 約 689人 | 2024年時点の生存者 |
その注射が、彼らを殺した。
1988年12月23日、エイズ予防法が成立する。法は感染者を差別から守る目的を掲げたが、当時の社会の空気のなかで、この法は 薬害患者を「うつす者」として烙印を押す側面を持った。
1970年のスモンのとき、京大の井上幸重がウイルス説を朝日新聞一面で発表し患者を社会から孤立させたのと、同じ構造だった。薬害患者は、二度、傷つけられた ── 薬で、そして社会で。
提訴
1989年5月8日、大阪地方裁判所。血友病患者と遺族 2名が、訴状を提出した。被告は、国 (厚生省) と製薬5社 (ミドリ十字、化血研、住友製薬、日本臓器、バクスター)。
5ヶ月後の1989年10月27日、東京地裁にも 14名の原告団が提訴した。訴訟は、6年続いた。
1995年10月6日、東京・大阪両地裁が 和解勧告を出す。第一次和解案は、原告ひとりあたり 4,500万円の一時金。だが、原告は受け入れを拒んだ。
問題は金額ではなかった。「国と企業の責任を、公式に認めさせる」 ── それが、原告団の譲れない一線だった。
そして、政治が動いた。
郡司ファイル
1996年1月、第1次橋本内閣が発足する。
橋本内閣は 自民党・社会党・新党さきがけの3党連立 ── 通称「自社さ連立」だった。1993年に自民党が下野し、1994年の村山富市内閣 (社会党党首) でも維持された連立構造が、橋本内閣でも継続していた。
厚生大臣に就任したのは、菅直人 (49歳)、新党さきがけ所属。連立内の少数党枠からの 初入閣だった。厚生省プロパーでも自民党族議員でもない、外部視点を持った厚生大臣。これが後の決め手になる。
就任から数日後の1996年1月23日、菅は省内に 11人の専従スタッフを集め、「薬害エイズ拡大の原因解明調査班」を設置した。
長年、厚生省は「資料は残っていない」と繰り返してきた。だが、菅は探させた。
1996年1月26日。
厚生省3階、薬務局審査課の書庫。
そこに、ひとつのファイルが残されていた。1983年当時の研究班の議論メモ、米国 CDC がエイズ症例を報告した新聞のスクラップ、研究班員の懸念意見、課内スタッフの雑記 ── 雑多な資料をまとめたものだった。命名は、当時の生物製剤課長 郡司篤晃の名から ── 郡司ファイル。
郡司本人は、後にこう述べている。
「新任の技官補佐が、自分の勉強のために書いては、私に見せた。すぐ捨てるのも失礼かと思って、ファイルしておいた」。
ファイル単体は、決定的な物証ではない。「厚生省として『非加熱製剤は危険』と判断した文書」は、ここにはなかった。
だが、米国 CDC の血友病3例感染報告 (1982年7月)、米国の加熱製剤切り替えの動き、研究班員の懸念意見 ── これらの情報が、1983年の時点で省内に届いていた事実が、紙の上に残っていた。「危険を認識する材料は、省内にあった」 ── それが、ファイルの示すものだった。
厚生省は長年、「資料は残っていない」と言い続けてきた。それが、出てきた。
1996年2月9日、菅直人は緊急記者会見でファイル発見を発表する。1週間後の2月16日、厚生大臣執務室に原告団を招き入れて、菅は頭を下げた。
「1983年当時、厚生省内に、非加熱製剤が危険という認識があった」 ── そう認めた。14年遅れた、国家謝罪だった。
その後の動きは、速かった。
| 日付 | 出来事 |
|---|---|
| 1996年3月7日 | 第二次和解案 (月15万円支給を含む恒久対策) |
| 1996年3月14日 | ミドリ十字社が責任を認め謝罪、5社受け入れ表明 |
| 1996年3月15日 | 日本国政府が和解受け入れ表明 |
| 1996年3月20日 | 原告団が受け入れ決定 |
| 1996年3月29日 | 東京・大阪両地裁で和解成立 |
提訴から6年10ヶ月。スモンの確認書 (1979年9月15日) から、17年差だった。
裁かれた者と、裁かれなかった者
和解と並行して、刑事責任が問われた。
罪状は 業務上過失致死罪。日本の刑法では、「危険を認識しながら、止めるべきことを止めなかった」── 不作為 ── も罪に問われる。責任ある立場の人間にとっては、手を下すのと、止めないのが、同じ重さになりうる。
被告は3組。
- 安部英 (元帝京大副学長、研究班班長) ── 1996年8月29日、業務上過失致死罪で逮捕
- 松村明仁 (元厚生省生物製剤課長)
- ミドリ十字 歴代3社長: 松下廉蔵、須山忠和、川野武彦
判決は、それぞれ違った。
安部英 ── 公判停止のまま死去
2001年、東京地裁は安部に 無罪を言い渡した。判決理由は、「1985年時点で、HIV感染リスクが医学的に確立していたとは言えない」。
検察は控訴した。2004年、控訴審の東京高裁は、安部が 心神喪失 (認知症) のため公判を停止する。2005年4月25日、安部英は88歳で死去した。
司法判断としては、医師の責任は裁かれずに終わった。
松村明仁 ── 1986年分は有罪、1985年分は無罪
2001年9月28日、東京地裁。松村明仁に 禁錮1年・執行猶予2年の有罪判決。
2005年、控訴審。判断は 時期で分かれた。
- 1985年5-6月の投与分 ── 無罪。加熱製剤がまだ承認されておらず、「非加熱を回収すべき」という医学的認識が省内で確立していたとは認定できなかった
- 1986年の投与分 ── 有罪。1985年7月に加熱製剤が承認され、1986年1月から十分な量が供給されていたのに、回収命令を出さなかった不作為
「安全な代替品が手に入った瞬間から、危険なものを放置することは罪になる」 ── それが、控訴審の論理だった。
ミドリ十字3社長 ── 実刑
2000年2月24日、大阪地裁。歴代3社長に 禁錮 2年 〜 1年4ヶ月の実刑判決が下された。
論理は松村と同じだった。1986年1月、ミドリ十字は加熱製剤の販売を始め、十分な供給量を確保できていた。それでも、未使用の非加熱製剤は回収せず、販売を継続した。その非加熱製剤を投与された患者が、HIV感染で死亡した。安全な代替品を供給できる立場にありながら、在庫処分を優先して被害を出した ── 司法はそう判じた。
製薬企業経営者の刑事責任が認定された、初の薬害事件だった。
ドラッグ・ラグ
薬害エイズで「不作為は罪になる」という前例ができた厚生省は、その後、慎重さに振り切った。
新薬の承認は遅くなった。海外で承認された薬が、日本では数年遅れて市場に出る現象 ── 「ドラッグ・ラグ」── が、2010年代まで深刻化した。抗がん剤や希少疾患の薬で 3-5年の承認遅延 が常態化した時期もある。
「動かなければ刑事責任、動きすぎれば批判」 ── 両側に責任リスクがある構造のなかで、役人の判断軸は 「自分が訴追されない側」 に最適化されていく。
危険な薬の 回収 は、動かないと不作為で罪になる ── だから迅速になった。
新薬の 承認 は、急いで通したものに副作用が出れば、それも罪になる ── だから慎重になった。
同じ「訴追されたくない」という動機が、回収では「動く」を、承認では「動かない」を選ばせた。社会全体としては、新薬が届かない時間を払うことになる。
1979年の薬事法改正と1996年の国家謝罪は、制度を強くした。だが強くなった制度は、こうして別の代償を生んだ。
新型コロナのワクチン特例承認 (2021年) のように、緊急時には大胆な判断が可能なことも証明された。だが平時の慎重さは、いまも変わらない。
不作為で罪になる ── そう司法が認定した薬害エイズ事件は、現代の厚生行政の形そのものを、後手後手に作り変えた。
三本目の薬害
1914年の売薬法 は、「効くなら、証明せよ」を言った。
1951年の覚せい剤取締法 は、効きすぎる薬を「物そのもの」で禁じた。
1962年のサリドマイド は、市販前審査の起源。
1970年のスモン は、市販後監視と被害救済の起源。
それらが結実した 1979年薬事法改正は、「売る前に審査し、売った後も監視し、被害が出たら救済せよ」と国家に課した。
そして1985年、薬害エイズは、その制度の 試金石となった。
承認制度はあった。だが米国の判断から 2年4ヶ月遅れた。市販後監視はあった。だが汚染製剤の 回収命令は出なかった。
制度を作っても、運用が遅ければ薬害は起きる ── 1996年の春は、そう証明した。
厚生省玄関前に建つ 「誓いの碑」 には、こう刻まれている ── 「サリドマイド、スモン、HIV感染のような医薬品による悲惨な被害を再び発生させることのないよう……」。
三大薬害。その最終章は、1979年薬事法改正の 限界を、最も明確な形で世に示した事件として、いまも書庫に残っている。
FAQ
薬害エイズ事件とは何ですか?
1982-1985年に米国から輸入された非加熱血液製剤がHIVに汚染されていたため、日本の血友病患者約 1,800人 (全血友病患者の約4割) がHIVに感染し、約700人以上が死亡した薬害事件です。米国は1983年3月21日に加熱処理製剤に切り替えていましたが、日本は2年4ヶ月後の1985年7月1日まで承認しませんでした。1989年5月8日大阪・10月27日東京で訴訟提訴、1996年3月29日和解。サリドマイド (1962) ・スモン (1970) と並ぶ「三大薬害」とされます。
郡司ファイルとは何ですか?
1996年1月26日、菅直人厚生大臣の指示で厚生省3階の薬務局審査課書庫から発見された、1983年当時のエイズ研究班に関するメモのファイルです。命名は当時の生物製剤課長・郡司篤晃から。本人によれば「新任の技官補佐の勉強用」で内容自体は決定的物証ではありませんでしたが、厚生省が長年「資料は残っていない」と繰り返してきたものが出てきた政治的インパクトが、1996年2月の国家謝罪と3月の和解成立につながりました。
なぜ日本は加熱製剤の承認が2年4ヶ月遅れたのですか?
複合要因です。(1) 厚生省エイズ研究班 (1983年6月発足、班長・安部英帝京大教授) が当初「非加熱使用禁止」を主張しながら最終的に「使用継続」に転じた、(2) 国産血液製剤メーカーの利害があった、(3) WHO の加熱製剤使用勧告 (1985年4月) を待つ姿勢があった、などの説が提示されています。1979年薬事法改正で「市販前審査」と「市販後監視」の制度はあったものの、運用上の遅延がHIV感染拡大を招きました。
薬害エイズで誰が刑事責任を問われましたか?
3組が業務上過失致死罪で起訴されました。(1) 安部英・元帝京大副学長 ── 2001年東京地裁無罪、2004年心神喪失で公判停止、2005年死去。司法判断は確定せず。(2) 松村明仁・元厚生省生物製剤課長 ── 2001年禁錮1年執行猶予2年、2005年控訴審で1986年投与分有罪・1985年分無罪。(3) ミドリ十字歴代3社長 (松下廉蔵・須山忠和・川野武彦) ── 2000年2月24日大阪地裁、禁錮2年〜1年4ヶ月の実刑判決。製薬企業経営者の刑事責任認定は薬害事件で初でした。
サリドマイド・スモンと薬害エイズはどう違いますか?
1962年のサリドマイドは 市販前審査の不在が原因 (当時、安全性審査制度がなかった)。1970年のスモンは 市販後監視の不在が原因 (当時、回収命令制度がなかった)。両者を受けた 1979年薬事法改正で「市販前審査+市販後監視+被害救済」が制度化されました。薬害エイズはその 制度があった上で起きた事件で、運用の遅延 (2年4ヶ月の承認遅延) が原因です。これを受けて1997年薬事法再改正、2001年厚生労働省設立、2014年薬機法改名と、制度はさらに強化されていきます。