2021年6月28日。
最高裁第一小法廷 (山口厚裁判長)。ノバルティスファーマ元社員 白橋伸雄の上告が棄却され、薬事法 (現薬機法) 違反の刑事被告事件は 無罪が確定した。
理由は明快だった ── 「学術論文を医学雑誌に掲載する行為は、薬事法66条1項にいう『広告』には当たらない」。
これは8年前、2013年5月に発覚した ディオバン事件 (バルサルタンの臨床研究データ改ざん) の終着点である。データ改ざんはあった。だが「論文」という形式が、現行法の「広告」概念に収まらなかった。三審を通じて、裁判所は 新規立法の必要性を一貫して示唆していた。
その判決から 34日後の 2021年8月1日。
薬機法に 課徴金制度 ── 売上の4.5% ── が施行された。違反広告に対して、これまで薬機法が持っていなかった「牙」だ。
判決と施行は同じ年の夏、わずかひと月の差で並んだ。これは偶然ではない。
これは GuidelineChecker のコラム 37本目、薬機法シリーズの 14本目である。薬機法、2014年 ── iPS細胞が動かした法律 で、山中伸弥の iPS 細胞研究が法律の名前そのものを変え、再生医療等製品の章が新設された ── シリーズは そこから ハーボニー ・ オプジーボ ・ 薬価制度 と 薬価論争へ分岐した。今回は 薬機法そのものに戻り、2014年改正から 5年後にやってきた次の改正 ── 2019年に「牙」が備わるまでの道のりを辿る。景表法に課徴金が立った 2014年 から、薬機法はどう追いついたのか。
牙のない時代の薬機法
2021年7月までの薬機法に、課徴金はなかった。
違反広告に対して厚労省が打てる手は、3つだけ。
| 手段 | 内容 | 経営への打撃 |
|---|---|---|
| 業務改善命令 | 広告審査体制の整備、教育徹底 | ほぼゼロ |
| 業務停止命令 | 最長14日間の業務一部停止 | 限定的 |
| 刑事罰 | 2年以下の懲役 または 200万円以下の罰金 (両罰規定で法人も200万円) | 軽微 |
国際展開する大手製薬の年間売上は数千億〜数兆円。200万円の罰金は、抑止力として機能しなかった。
景表法には2016年から 売上の3% の課徴金が、特商法には 2016年改正で業務停止命令の拡大があった。消費者法に「行政の牙」が立て続けに装着されていく中で、薬機法だけが旧来の罰則体系のまま取り残されていた。
「この程度のペナルティでは止まらない」── 厚労省内部にこの認識が広がるきっかけとなった事件があった。
ディオバン事件 ── 薬機法を変えた7年
2013年5月24日。日本医学会利益相反委員会が、バルサルタン (商品名: ディオバン) に関する臨床研究の問題を公表した。
ディオバンはノバルティスファーマの高血圧治療薬で、年間世界売上 約60億ドル(2010年ピーク) のブロックバスター。その効果を裏付ける根拠として、日本国内の5つの大学が臨床研究を実施していた。
| 研究 | 大学 |
|---|---|
| JIKEI HEART Study | 東京慈恵会医科大学 |
| KYOTO HEART Study | 京都府立医科大学 |
| VART | 千葉大学 |
| SMART | 滋賀医科大学 |
| Nagoya Heart Study | 名古屋大学 |
これら5研究すべてに、データ改ざんが認定された。論文は順次撤回された。
問題は、改ざんが ノバルティスファーマ社員 (白橋伸雄) によって行われ、しかも社員の身分を伏せた「外部の統計解析者」として大学側に協力していたことだった。社員が自社製品に有利な結果を作り出していた。
2014年1月9日、厚労省は 薬事法66条1項 (誇大広告禁止) 違反で、ノバルティスファーマ社と元社員を 東京地検に告発。同年6月11日、白橋伸雄 (当時63歳) が逮捕された。
ここで法的な問いが浮上する ── 学術論文に書かれた改ざん結果は、薬事法が禁止する「広告」に該当するのか?
三審の無罪 ── 「論文は広告ではない」
東京地検は「学術論文の体裁を取りつつ、実質的にディオバンの広告として機能した」と主張した。だが3つの裁判所は、3つとも無罪を選んだ。
| 段階 | 日付 | 判決 |
|---|---|---|
| 東京地裁 | 2017年3月16日 | 無罪 |
| 東京高裁 | 2018年11月19日 | 控訴棄却 (一審無罪維持) |
| 最高裁第一小法廷 | 2021年6月28日 | 上告棄却・無罪確定 |
東京地裁の論理は、データ改ざんは認定しつつも、それを「広告」と呼ぶことを拒んだ。
学術論文を医学雑誌に掲載する行為は、薬事法66条1項にいう「広告」に当たらない。同条の「広告」とは、特定の医薬品の購入を誘引する目的で行われる、公衆に対する表示を指す。学術論文はそれと性質を異にする。
東京高裁 (芦澤政治裁判長) はさらに踏み込んだ。
学術論文への規制は、学問の自由との関係で問題を生じる。本件のような事案を規制するには、現行薬事法ではなく、新規立法が必要である。
「無罪」だが、裁判所が 立法府にボールを返した。これが控訴審判決の意味だった。
最高裁 (山口厚裁判長) は 2021年6月28日に上告を棄却。三審の判断は完全に一致した。改ざんはあった、しかし現行法では罰せない、立法で解決せよ。
「論文は広告ではない」という法的構造は、薬機法の「牙のなさ」を最も鮮明に可視化した事件だった。
武田薬品ブロプレス ── 史上初の業務改善命令の弱さ
ディオバン事件と並行して、もう一つの事件が薬機法に「牙の必要性」を突きつけた。
2015年6月12日。厚労省は 武田薬品工業に対し、薬機法に基づく 業務改善命令を発出した。違反薬は ブロプレス (カンデサルタン) ── 高血圧治療薬で、武田の主力製品の一つ。
誇大広告認定による行政処分は、薬機法 (旧薬事法時代を含めて) 史上初だった。
問題視されたのは、「ゴールデン・クロス」と呼ばれた臨床試験 (CASE-J) のグラフ加工。
- 統計的有意差がない時点でのグラフ交点を、「ブロプレスが他剤を逆転した瞬間」として最大級表現で強調
- 脳卒中発現率の差を、視覚効果で過大に見せる加工
- 承認外効能 (糖尿病) を「切り札」と表現する販促資材
3つを総合して「誇大広告」と認定された。
ところが、改善命令の 中身を見ると、業界は別の意味で衝撃を受けた。
| 命令内容 | 武田への影響 |
|---|---|
| 外部有識者を含む広告審査体制の整備 | 体制構築コストのみ |
| 過去資材も対象とする再審査 | 一時的な業務負荷 |
| 教育訓練の充実 | 人材育成投資 |
| 業務停止は含まず | 営業活動は継続可能 |
武田薬品はこの処分を契機に広告審査を強化したが、経営に響く処分ではなかった。
「史上初の業務改善命令ですらこの程度」── 厚労省と業界の双方に、現行罰則の限界が共有された瞬間だった。
制度部会から立法へ
ディオバン事件・武田ブロプレス事件を受けて、厚生科学審議会の 医薬品医療機器制度部会 で議論が本格化した。
立法までのタイムライン
| 日付 | 出来事 |
|---|---|
| 2018年4月11日 | 制度部会 第1回 ── 情報提供適正化・課徴金が議題に |
| 2018年12月25日 | 制度部会 とりまとめ ── 課徴金、SaMD、添付文書電子化、医薬品等行政評価・監視委員会の常設化 |
| 2019年3月19日 | 改正法案を閣議決定、通常国会へ提出 |
| 2019年11月27日 | 参議院本会議で 可決成立 |
| 2019年12月4日 | 公布 (令和元年法律第63号) |
| 2020年9月1日 | 主要部分施行 |
| 2021年8月1日 | 課徴金・添付文書電子化 施行 |
改正のスコープ
課徴金導入以外にも、改正には多数の項目が含まれていた。
- 課徴金納付命令制度の導入 (薬機法75条の5の2以下)
- SaMD (プログラム医療機器) の法定化と IDATEN (二段階承認・変更計画確認手続)
- 添付文書の電子化原則化 (紙同梱の原則廃止)
- オンライン服薬指導の法定化
- 認定薬局制度 (地域連携薬局・専門医療機関連携薬局)
- 医薬品等行政評価・監視委員会の常設化
- 国内未承認医薬品等輸入確認制度
「課徴金が話題の中心」だが、実は 薬機法の第4世代改正 ── 2002年生物由来製品、2013年再生医療・薬事法から薬機法への改称、2014年施行、そして 2019年改正 ── として、規制構造の総合的な現代化だった。
課徴金 4.5%という設計
新設された薬機法課徴金は、景表法とは違う設計になっていた。
| 項目 | 景表法 課徴金 | 薬機法 課徴金 |
|---|---|---|
| 導入 | 2014年改正 / 2016年4月施行 | 2019年改正 / 2021年8月1日施行 |
| 算定率 | 売上の 3% | 売上の 4.5% |
| 対象 | 不当表示 (優良誤認・有利誤認) | 薬機法66条1項違反 (虚偽・誇大広告) |
| 下限 | 課徴金額 150万円未満は命令不可 | 課徴金額 225万円未満 (売上 5,000万円未満) は命令不可 |
| 自主申告減額 | 50% | 50% |
| 相当注意の免責 | あり (8条1項ただし書) | なし |
| 罰金との関係 | 二重処罰回避 | 同一違反で罰金確定 → 課徴金から控除 |
| 重複時調整 | ─ | 景表法3%控除 → 薬機法は実質1.5% |
「4.5%」の根拠
景表法 3%より高い 4.5%という算定率は、業種別の営業利益率を反映している。医薬品製造業の連結営業利益率は経常的に 15-25%で、景表法の主たる対象業種 (小売・通販・サービス業の平均) より高水準。
課徴金は「不当な利得の剥奪」が法理的根拠なので、利益率が高い業種ほど課徴金率も高く設定される。
「相当注意の免責」がない
景表法には「注意義務を尽くしていれば免責」(8条1項ただし書) の規定がある。広告主が代理店等にチェックを依頼していた場合、抗弁できる。
薬機法にはこれがない。製薬企業は自社製品の広告に対して、結果責任を負う設計になっている。誤認広告が発出された時点で、注意義務の有無に関わらず課徴金対象だ。
これは医薬品の特殊性 ── 患者の生命・健康に直結する商品 ── を反映した、より厳格な設計といえる。
「牙」が並んだ風景
2021年8月1日。薬機法の課徴金施行で、消費者保護に関わる3法すべてが「現代的な行政の牙」を備えた。
| 法律 | 課徴金 | 施行 | 算定率 |
|---|---|---|---|
| 景表法 | 導入済 | 2016年4月 | 3% |
| 特商法 | 未導入 (2026年現在も) | ─ | ─ |
| 薬機法 | 導入済 | 2021年8月1日 | 4.5% |
特商法だけが、いまだ課徴金を持たない。罰金 (法人 3億円以下) と業務停止命令で対応しているが、消費者問題の中心領域 (悪質商法・サブスク詐欺・連鎖販売) では「課徴金がほしい」議論が継続している。
「消費者の権利を守る3法」のうち、景表法と薬機法には課徴金、特商法にはまだない。これが2021年以降の風景だ。
海外との比較
| 国 | 制裁金水準 |
|---|---|
| 米国 FDA | False Claims Act との組み合わせで巨額和解 (GSK 2012年 30億ドル、J&J 2013年 22億ドル) |
| EU EMA | 加盟国ごとに課徴金あり (EU GDPR は売上の4%上限) |
| 日本 薬機法 | 4.5%、相当注意の免責なし |
絶対額では米国 FDA に大きく劣るが、算定率自体は国際的にも厳格な部類に入る設計だ。
牙はあるが、振るわれない
2021年8月1日に施行されてから、本記事執筆時点 (2026年) まで 約5年。
ところが、薬機法 課徴金の納付命令は、公表事例ゼロである。
「牙はあるのに、振るわれていない」── これが現在地だ。
措置命令の初発動: 2025年11月7日
課徴金とは別系統で、薬機法72条の5に基づく 措置命令の初発動が 2025年11月7日に起きた。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 対象企業 | インプレッション株式会社 (兵庫県尼崎市) |
| 違反商品 | 家庭用電位治療器 「イアス30000」 |
| 違反内容 | 「糖尿病が治る」「血液をきれいにする」「高血圧が治る」と認証外効能を体験会場で表示 |
| 命令 | 法令遵守体制整備、再発防止策の1か月以内提出 |
家庭用電位治療器という、製薬大手主流ではない商品が初発動の対象になったことは、業界には別の意味を持つ。「製薬大手は自主規制が機能している」「規制対象になるのは規制空白地帯の周辺機器」という構造が浮かび上がる。
抑止効果型の制度
ディオバン事件で「論文は広告ではない」と判決された範囲は、課徴金導入後も基本的にそのまま残っている。学術論文のデータ改ざんを直接罰する規定は、今も薬機法にはない。
ただし、2019年改正と同時期に動き出した日薬連・製薬協の 販売情報提供活動ガイドライン (2019年運用開始) が、現場の広告審査体制を強化した。制度ができただけで業界が動いた抑止効果は、確かに発生している。
「牙」は振るわれていない。しかし、振るわれる可能性が常に存在するという構造が、製薬企業の広告倫理を変えた。
まとめ ── 薬機法の現在地
序文に戻る。
2021年6月28日 (最高裁無罪確定) → 2021年8月1日 (課徴金施行)。
この 34日の並びは、立法府が司法の判決を待っていたわけではない (法案は 2019年に成立済)。だが結果として、3つの権力が同期した。
| 権力 | 動き |
|---|---|
| 司法 | 「論文は広告ではない、新規立法が必要」と判決で示唆 |
| 立法 | 制度部会から国会まで、課徴金を含む 2019年改正を可決 |
| 行政 | 2021年8月、課徴金を施行 |
ディオバン事件は、薬機法に「牙」を備えさせる 最後のひと押しになった。
薬機法シリーズ全体の系譜に並べると、こうなる。
| 節目 | キーフレーズ |
|---|---|
| 売薬法 1914年 | 効くなら、証明せよ |
| サリドマイド・スモン | 市販前審査と市販後監視の起源 |
| 薬機法 2014年 | iPS細胞が動かした法律名、再生医療等製品の章新設 |
| ハーボニー・オプジーボ・薬価制度 | 高額医薬品時代と社会が払える上限 (薬価論争への分岐) |
| 本記事 (薬機法 2019年改正) | 論文は広告ではない、しかし牙は立つ |
「効くなら、証明せよ」(売薬法) で始まった薬機法の長い歴史は、iPS細胞で法律名が変わったあと (2014年改正)、証明の偽装 (ディオバン改ざん) に対して 課徴金という牙で答える形に到達した。
次は、2022年改正で創設された 緊急承認制度 (アビガン騒動の総括) と、2025年改正の 販売制度見直し ── 薬機法はまだ動いている。
FAQ
課徴金制度はいつから施行されたのですか?
2021年8月1日です。2019年11月27日に成立、12月4日公布の改正薬機法 (令和元年法律第63号) の規定で、課徴金と添付文書電子化が同日施行となりました。主要部分は 2020年9月1日に先行施行されています。改正法は「医薬品、医療機器等の品質、有効性及び安全性の確保等に関する法律等の一部を改正する法律」が正式名称です。
課徴金の算定式は?
違反期間中の対象品目の対価合計額 × 4.5%です。下限は課徴金額 225万円 (売上 5,000万円相当) で、これ未満は命令されません。違反者が発覚前に厚労大臣へ自主報告すれば 50%減額、ただし調査開始予測後の報告は減額対象外。景表法と重複する場合は景表法 3%を控除し、薬機法分は実質 1.5%になります。同一違反で罰金が確定した場合は、罰金額を課徴金から控除する二重処罰回避設計です。
ディオバン事件で何が問題だったのですか?
ノバルティスファーマの社員 (白橋伸雄) が、所属を伏せて「外部統計解析者」として5つの大学 (東京慈恵会医大、京都府立医大、千葉大、滋賀医大、名古屋大) の臨床研究に関与し、自社製品ディオバン (バルサルタン) に有利になるようデータを改ざんしていました。5論文すべて撤回。厚労省は2014年1月に薬事法66条1項 (誇大広告) 違反で告発しましたが、東京地裁 (2017年3月)、東京高裁 (2018年11月)、最高裁 (2021年6月28日) のいずれも「学術論文は薬事法の広告に当たらない」として無罪。三審を通じて、裁判所は新規立法の必要性を示唆していました。
なぜ薬機法の課徴金は景表法より高いのですか (4.5% vs 3%)?
業種別の営業利益率を反映しています。医薬品製造業は連結営業利益率 15-25%と高水準で、景表法の主たる対象業種 (小売・通販・サービス業の平均) より高い。課徴金は「不当な利得の剥奪」が法理的根拠なので、利益率が高い業種ほど課徴金率も高く設定される、という法制度設計の原則に基づいています。
「相当注意の免責」がないとは何ですか?
景表法には「広告主が代理店等にチェックを依頼するなど注意義務を尽くしていれば免責」という規定 (8条1項ただし書) がありますが、薬機法にはこの規定がありません。製薬企業は自社製品の広告に対して結果責任を負う設計で、より厳格です。患者の生命・健康に直結する商品の特殊性を反映した立法判断と説明されています。
課徴金は初めて適用されたのはいつですか?
本記事執筆時点 (2026年) まで、薬機法課徴金の納付命令の公表事例はゼロです。施行から約5年経過していますが、第1号適用は未発動です。一方、薬機法 72条の5に基づく措置命令の初発動は 2025年11月7日 (兵庫県尼崎市のインプレッション社、家庭用電位治療器「イアス30000」の認証外効能表示「糖尿病が治る」「高血圧が治る」に対する命令) でした。製薬大手は自主規制ガイドラインで広告倫理を強化しており、抑止効果型として機能しているとも解釈できます。
改正のスコープは課徴金だけですか?
いいえ。SaMD (プログラム医療機器) の法定化、IDATEN (二段階承認制度・変更計画確認手続)、添付文書電子化、オンライン服薬指導、認定薬局制度 (地域連携薬局・専門医療機関連携薬局)、医薬品等行政評価・監視委員会の常設化、国内未承認医薬品等輸入確認制度など、薬機法の総合的な現代化が同時に行われました。薬機法の第4世代改正として位置づけられています。